=ギターエッセイ=
ここに連載するエッセイは50年以上前に書かれた、
著名な音楽評論家によって書かれたエッセイです。
読み応えのあるエッセイなので、
何回かに分けて掲載していきます。
(1)(2)(3)(4)(5)(6)
ギター音楽の「精妙さ」という言葉については、
実際のギター演奏家からは、
まだまだいろいろなアプローチの仕方があるだろう。
たとえば、先ほどの人間の声の肉感性というものに、
比較してみるならば、
ギターの演奏のそれは人間の指の持つ肉感性、
ということもできるかもしれない。
楽器と肉体が密着しているという意味では、
ギター奏者は、弓を媒介とするヴァイオリン奏者より、
もっと「楽器に近い」。
その直接性が、ギター音楽の「精妙さ」を、
導き出していることは言うまでもない。
ギターをリュートと同一視することはできないかもしれないが、
それがごく近い親戚筋の楽器であることは間違いない。
リュートは、より西欧的、より宮廷的な楽器として、
十六、七世紀のヨーロッパに広く用いられた。
特にフランスの宮廷では、
いわゆる宮廷歌謡の伴奏楽器として、
その繊細な音色を愛された。
しかもリュートは、当時はいわば万能楽器として、
今日のピアノの地位にあったのである。
リュートとピアノの中間には、
クラブサン(チェンバロ)があって、
バロック時代を代表しているが、
こうした楽器の変遷は、
そのままヨーロッパの音楽的感受性の変遷の、
歴史を表してるに違いない。
リュートの「直接性」が、
ピアノという近代的な鍵盤楽器、
複雑なアクションの機構を通じて音を出す、
ダイナミックな機械に変わってきたことの意味は、
大きなものに違いない。
しかしながらリュートを生んだ人間の感受性の歴史は、
我々の音楽的意識の中に残っているはずである。
わたしは近代的なピアノ奏者の演奏の中に、
それを感ずることがある。
特にエラールとかプレイエルとかいう楽器を生んだ、
フランスのピアノ音楽の中にーーー。
しかし、それが、スタンウェイ万能の今日のピアノ界で、
果たしてどのくらい生き残ることができるか、
わたしにはよく分らない。=つづく=
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