=ギターエッセイ=

     ここに連載するエッセイは50年以上前に書かれた、
    著名な音楽評論家によって書かれたエッセイです。
    読み応えのあるエッセイなので、
    何回かに分けて掲載していきます。

(1)(2)(3)(4)(5)
しかしながら、それはまた別の意味で、

人声や擦音楽器よりも、

もっと微妙な楽器ということができるのではないだろうか。

それはたとえば音色そのものの、

感覚的変化の可能性といったような点である。

それがどのようなものであるかは、

わたしよりこの読者の方がもっとよく知っているに違いない。

その変化は、人間の声のように、具体的な感情、

具体的なパトスには結びつかないかもしれないが、

そうした変化をえらび、あるいは楽しむ心には、

感覚的表現を通じて、

もっと知的なものの働きが感じられる。

あの小さな音の中から、

豊かな感覚的世界を聴きとるのは、

むしろ「考える耳」の作用なのである。

しかしながら「考える」ということを誤解しないでいただきたい。

もちろん考えるのは、

普通人間の論理的な頭脳の作業である。

それは演奏においては、楽曲の歴史や構造や、

その美学的特質などを、

演奏する肉体を離れて研究し、

思考し、理解することだろう。

だが、わたしの言う「考える耳」というのは、

もっと違った働きを持つ。

わたしがそれを「考える」というのは、

人間の感覚もまた知的なものを離れて、

叫んだり、酔ったりする、ということを区別して、

感覚そのものが、いつでも微妙な批評の作用と結びついて、

働く状態を言うのである。

その批評は、音楽の歴史とか構造とかいうような、

もっとはるかに、演奏家自身の内部の世界、

あるいは、演奏という行為それ自体に対して働くものであり、

それはいわば、演奏の一部、しかも一番奥の、

つまり演奏そのものの肉体の作用といってもよい。

このような「考える耳」は、

あらゆる演奏家に要求されていて、

事実、演奏のあらゆる瞬間に働いているものだろう。

しかしながら、その「耳」をもっとも精妙に働かせる世界、

それを要求される世界が、

ギターと、ギター音楽なのではないかと、私は思う。=つづく=


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