=ギターエッセイ=

     ここに連載するエッセイは50年以上前に書かれた、
    著名な音楽評論家によって書かれたエッセイです。
    読み応えのあるエッセイなので、
    何回かに分けて掲載していきます。

=ギターと私(一)=

 ギター音楽とは、わたしは細い糸でつながっているだけである、

わたしはこの楽器をほとんど弾くことはできないし、

そのために書かれた作品も、そう沢山知ってるわけではない。

ギターの演奏家もあまり聴いてはいない。

それにもかかわらず、

わたしは自分の中にこの楽器に対する特別な愛情を感じ続けている。

何故だろう。

十分に説明できないその理由を、

改めて思い直すことから出発してみたい。

 ギターの演奏会を始めて聴いたのは、

ヨーロッパに出かけてからである。

わたしはもう30才になっていた。

ギターには格別の関心もなかったが、

セゴヴィアの名声にひかれて切符を買ったのである。

ひどく寒い日だったのを覚えているが、

わたしは友人と、ボエシー街のサル・ガヴォーに出かけた。

サル・ガヴォーはご承知の通り、広すぎもせず、

それかといって狭すぎもせず、室内楽の演奏会場として、

多くの人々に好まれていた。

わたしはここでつい数日前に、

ジャック・ティボーの独奏会を聴いたばかりであった。

若い時からレコードを通じて、ティボーを尊敬していたが、

その演奏に接して、わたしは天才という言葉の意味するものを、

はじめて理解したと思った。

1952年の冬だから、15年以上も前のことだ。

ティボーはまもなく、日本への旅行の途中で死んだ、

そればかりではなくて、

そのほかにわたしが本当に大きな感動を持って聴いた演奏家たち、

フルトヴェングラーとかコルトーとか、

その他大勢の人が死んでしまった。

生きているのはカザルス、そしてセゴヴィアだけである。

 セゴヴィアの演奏は、

ティボーの天才にまだ酔っていたわたしの心に、

それに劣らない強い感動をあたえた。

いや、ギターという楽器が、わたしにとって未知の世界であっただけに、

それは一層大きな啓示であったといえるかもしれない。

それを私は、不思議なほどの正確さで思い出すことができる。=つづく=


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