=ギターエッセイ=
ここに連載するエッセイは50年以上前に書かれた、
著名な音楽評論家によって書かれたエッセイです。
読み応えのあるエッセイなので、
何回かに分けて掲載していきます。
(1)(2)(3)
演奏における精妙さとは何か。
これは、そう簡単には答えられないことだろう。
特に、それは、自分自身で楽器を弾いている人、
それも、私共のようなアマチュアとしてではなくて、
その楽器を、自分自身の肉体のように、
使いこなしている人だけが知っているところのもので、
そうした体験なしては、
どんな想像も及ぶことのない世界に違いない。
けれども、私はあえてそうした想像の中のギターを語ってみたい。
そうするほかに方法がないからでもあるが、
わたしたち批評家は、言葉という道具を通して、
やはり精妙な観念の世界を描く、
欲望を持っているのである。
私共が、音楽家たちの仕事を理解するのは、
そうした私共の自身の仕事の経験を通してやるのだ、
といってもよい。
ものを書くというのは、
わたしたちが理解したことを書くのではなくて、
書くということ自体が理解の形式なのである。
演奏家にとって、それは自明のことのはずである。
彼等にとっては、ピアンを弾くことが、
曲を理解する道なのだから・・・・。
しかし、演奏家は、批評家の仕事を理解しない。
その責任は批評家にもあるが、演奏家にもある。
無理解は双方の中にあり、
同時に、理解の道はいつでも自分の内側にある。
私が、演奏という行為の精妙さについて語ることは、
許していただけるだろう。
演奏家に精妙さを要求するのは何だろうか。
それはこういうふうにも考えられる。
つまり、私達にとって一番精妙な道具は、
私たち自身の肉体であり、楽器の精妙さとは、
私達の肉体の精妙さの影であると。
これは、それ自体、きわめて正しい言い方に違いないだろう。
そしてその意味で、
音楽家に許された一番精妙な道具は、肉声である。
私共は、日との声を聴いて、
美しい声だとかしゃがれた声であるとか言うばかりではなくて、
いやらしい声であるとか気取った声であるとかいう。
私共が聞き取っているのはおそらくもっとはるかに多くの、
そして微妙な点に及んでおり、
声楽家は、そのような他者の精妙な批判を前にして、
音楽という完結した作品を作らなければならない。=つづく=
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