鳳凰三山縦走記


                         第三回
               
                (一)


                 




「鳳凰三山縦走記」を書き始めてから今回で三回目だ。


ようやく山道を歩き出した。

このまま最後の夜叉神峠に着くまで何回かかるか

弱冠不安を感じつつ今回も話しをすすめたい。


山道を歩きはじめてしばらくは、

それほどの急登もなく、順調だった。

荷物はあいかわらず重いが、

足はどんどん前に出た。

快調ペースだった・・・。


自分の後ろについた隊長は、気をつかってくれて

「急がなくてもいいですよ」を、何回も言ってくれた。

言われるたびに、なんとなくグッというあまり形のない圧力を感じる。

この時点では快調なペースだから、

圧力といっても些細なものだった・・・。


南アルプスの山はどれも共通していると思うが、

まず登りはじめて続くのは雑木林のみだ。

木ばかりでほかに何も見えない。

ただひたすら急な坂が続くだけだ。

こういう状態に満足感を持つには、

一回や二回の南アルプスがよいではまず分からない。

じっくり登り込んで5年はかかる。

自分の場合は5年登り続けてもさほど分かりはしなかったが、

これが南アルプスなんだと自分に言い聞かせることはできるようになった。


塩見岳あたりだとかなり上まで何もない。

しかし、塩見岳くらいになると木一本一本が太く風格がある。

この風格のある原始の大木はそれだけで見応えがある。

この原始の大木が奥まで続いている。

これがなかなかの景色となって迫ってくるものがある。

ここが北アルプスとは全く違う味わいといえる。

南アルプスでは大展望までは長い急登が続く、

しかし、そこまでにも目の前に大展望が広がっているのだ。

そういう意味では北アルプスなどは大展望までは単なる禿山だ・・・。

こう言い切ると異論反論雨あられだと思うが・・・。


しかし、鳳凰三山くらいの前衛の山になるとそこまでの風格がない・・・。

ただの深い森の中という感じだ。


ここをひたすら登る。

最初それほどでもなかった登りも徐々に角度を増してくる。

前を行くシンドウ君とサイトウ君は苦しいと言いながらも

足どりはしっかりしている。

それに上る速度が速い。

なんだかじわじわと年齢の差を感じ始める。


登る角度が急になるにつれて息が苦しくなる。

サイトウ君が「きつい」と言いながらも声は明るいのに比して

こちらは、「きついな」と言いながら次の声が出ない。

10歳以上のちがいを感じざるをえないのだ。


隊長は、「急がなくていいですよ」

と、見るからに苦しそうなこちらに気を使ってくれる。


汗が体中から噴き出してくる。

これだけの汗を一度に消費するのは、

中学生の時の部活の練習以来ではないだろうか。

しかし、登山もある程度のキャリアを積んでくると、

この汗が噴き出す感じがまたなかなかたまらない。

自分の中に野生を感じて結構恍惚なのだ・・・。


とにかく無性に水を飲みたくてしょうがない。

しかし、登っている時に何度も止まって飲むわけにもいかない。

水を飲むためには当然立ち止まらなくてはならない。

皆のペースをくずしてしまうと文句を言われそうだ。


実際にこの登山の後、人のペースに合わせて、

歩かないといけない時があり、

その時は非常にたとえようのない疲れたのを記憶している。


ただただ水が飲みたくても息がつらくてもガマンして登った。

もうこの時には修行の世界に突入してる気分になっていた。

ここまで愚痴も文句も言わずに我慢してるというのは、

過去には思い出せない。


この時、キャノンの一眼レフカメラ以外に、

スナップ写真用にコンパクトカメラも持ってきた。

しかし、そのカメラを出す気分の余裕もない。

記念すべきアルプス登山の第一回目というのに、

写真はほとんどない・・・。


しだいに登りも急になってくる。

少し登って少し下ってがなくなり登りだけになった。

荷物がズッシリと肩にかかってきた。

歯をくいしばって体を持ち上げる。


その速度があまりに遅いので

シンドウ君とサイトウ君が先に歩いて行ってしまいそうになる。

あまり遅れるのもくやしいと思い必死でガンバル。

しかし、差はあまり縮まらない。


何度も「休憩しよう」と隊長に言いかけるが、

「もう休憩ですか?」

と、言われるのが気持ちにひっかかって言い出せない。


この登っている時の写真が一枚だけ残っている。

このドンドコ沢を登り切って

地蔵小屋に着くまで撮ったスナップがこれ一枚だ。


その表情を見るとこれだけ必死の形相というのは、

この時からこれまで何回もないんじゃないかという雰囲気だ。

なにやらはずかしくなってくる。


木ばかりで展望はまったくないのだが

途中から沢の流れる音がしてきた。

水の流れる音が聞こえてくると皆立ち止まった。

「沢の音だ」

隊長が言うと皆気分がなごむ。

こちらは気分が和む一歩手前までしかいかない・・・。


何時間も急な日本三大急登の一つ

と言われているドンドコ沢を登っていると

こういう登山は、はじめてだけに気分が沈んでくる。

景色がないわけだから自然にクツ先だけ見ている。

出かけてくる前の新宿駅が思い出される。

このときはやる気十分だった。

あの気分の高揚感はかけらも残ってなかった・・・。


こういう時にアコースティックな音が聞こえてくると、

いきなり気分がほぐれる。

肺の隅まで空気を吸い込んで一息入れる。


しかし、音だけは聞こえるが

沢の姿はまったく見えない。


登るほどに角度はさらにきびしくなる。

足だけで荷物を持ち上げて歩くのが大変だ。


そばに細い木があればつかまり、

根が出ていればつかまって腕も使って登る。

突然つかんだ木が折れてしまったりすると

ドキッとして踏んばる。

重いザックで折れたはずみで後ろにのけぞりそうになる。


汗はますます吹き出し目に入ってくる。

バンダナをまいていても流れてくる。

目に入るとこの時はコンタクトレンズをしていたので、沁みるのだ。

目をパチパチしてこらえる。


ズボンもだんだんずり落ちてきたりする。

それも気になりながら、時々両手で引き上げながら、

一歩一歩とにかく止まらないように登る。=つづく=




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