マウロ・ジュリアーニ 

               マウロ・ジュゼッペ・セルジオ・パンタレーオ・ジュリアーニ
       (Mauro Giuseppe Sergio Pantaleo Giuliani, 1781727日 – 182958日)
               ナポリ王国のギタリスト・作曲家。

                       



 ビシェーリエに生まれるが、早くから兄ニコラとともにバルレッタに移り、

その地を学
習の拠点とした。初めはチェロの指導を受け、

生涯にわたってこの楽器を完全に諦めたわけではなく、

またおそらくヴァイオリンも学んでいたらしい。

その後ギターに没頭するようになり、わずかな期間で熟練したギター奏者になった。

ジュリアーニがついた教師については不明であり、

ジュリアーニのイタリア時代の活動についても厳密に分かっているわけではない。

 マリア・ジュゼッペ・デル・モナコと結婚し、

息子ミケーレ(1801年 バルレッタ - ?)を授かる。

その後は一時期ボローニャやトリエステに滞在していたらしい。

1806年の夏、チェロやギター、対位法の学習を済ませると、

家族を残したままウィーンに出向く。

この地でヴィルムート嬢(Fräulein Willmuth)という女性と関係を結び、

1807年には1女マリアを儲けた。

 ウィーンでは、古典派の器楽曲の様式に通じるようになり、

1807年には古典派様式による自作の出版に取り掛かる。


 ヨーロッパ全土に演奏旅行に乗り出し、

大成功をおさめて音楽界の名士となり、

19世紀初頭のウィーンで活躍した演奏家や作曲家のなかでも、

最高の一人に数えられた。

 ベートーヴェンやロッシーニのような著名な作曲家にも知られるようになり、

1815年にピアニストのヨハン・ネポムク・フンメル(その後はイグナツ・モシェレス)、

ヴァイオリニストのヨーゼフ・マイゼーダー、チェリストのメルクとともに、

シェーンブルン宮殿の植物園で、

(入場料が1ドゥカートだったことにちなんで「ドゥカーテン・コンツェルト」と呼ばれた)

一連の室内楽の演奏会を行なった。


 同じく1815年には、ウィーンの帝国議会の名士たちのための公式の演奏家となった。

それ以前の1813128日には、

ベートーヴェンの《交響曲 第7番》の初演にも(おそらくチェリストとして)参加している。

 ウィーンでは、作曲家としてはささやかながら成功した。

ジュリアーニは、ほとんど楽譜出版社アルタリアと提携しており、

同社がジュリアーニのギター曲の大部分を出版したのだが、

その他の地域のあらゆる出版社と取り引きし、

自作をヨーロッパ各地に広めてもらった。

また、ギター教師としても名声を得て、

ボブロヴィッチやホレツキーら、数々の門人を輩出した。

 1819年に、主に経済的な理由から、ウィーンを後にする、

(財産や預貯金は、債権者への返済のために差し押さえられていた)。

イタリアに戻ると、トリエステやヴェネツィアに過ごし、ついにローマに落ち着いた。

ローマでは大して成功せず、わずかな作品を出版し、

1度きりの演奏会を開いただけだった。

 18237月は、重病の父親を見舞いに、度々ナポリを訪ねている。

 両シチリア王国の都では、ジュリアーニの評価が好転し、地方の出版社によって、

その他のギター曲を出版してもらうことができた。

1826年には、ポルティチにて、

フランチェスコ1世とボルボーネ家の宮廷のために御前演奏を披露した。

この頃がさしずめジュリアーニのナポリ時代であり

1827年の末までに体を壊し、182858日にナポリで生涯を閉じた。

ジュリアーニの訃報に、ナポリの音楽界はほとんど動揺しなかったという。

 フェルナンド・ソルは、多くのギター独奏曲、デュオ作品を残したが、

室内楽の分野ではほぼ作品を残さなかった。

それに対してマウロ・ジュリアーニは、ソロ、室内楽、協奏曲と、

幅広い分野で作品を残した。



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参考:ウィキペディアより



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