That エッセイ once again
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当教室に在籍して早18年。
アンサンブルにも参加して元気にギター弾いている。
マダムにギターを始めたころの思い出を、
以前語っていただきました。
今回再び掲載したいと思います
大陸育ちのお話は興味が尽きない。
もう一度詳しくお話していただき、
加筆しながら紹介したいと思います。
かなり貴重なお話であり、
歴史の証言の意味合いもあります。
=満州から東京へ(十二)=
東京の姉のところに行く前に、
兄の所へ来るようにとの連絡もありました。
兄は姫路の新日鉄になる前の富士製鉄に努めてました。
そこで富士製鉄に勤めるように言ってきたのです。
しかし、私自身は東京へ行きたいとの気持ちが強く、
結局、東京の姉のところに身を寄せることにしたんですね。
東京へ行っても仕事があるかどうかわかりませんでした。
大学を出てもなかなか就職口のない時代だったので、
不安はありましたよ。
叔母にはかなり止められましたが、
若いということもあり、手近な荷物だけ持って、
東京行きの夜行列車に飛び乗りました。
その当時は広島から東京へは8時間かかりました。
今だったら8時間飛行機に乗れば、
かなりのところまで行けるんじゃないですかね。
まあ、時代ということですね。
その当時の女の一人旅、なんだか危ない感じで、
寝ることもできません。
まんじりもせず列車の音だけが聞こえてましたね。
広島の叔母の家は風光明媚なところにあって、
自然にできた「雄橋」というのがあります、
高松宮様も来たことがあるんですよ。
その時、村長が慌てふためいて、
オロオロしてたのが語り草になってますけどね。
秋になると真っ赤に紅葉して、とにかく綺麗なんです。
いろんなところから観光客が来てましたね。
その当時は旅館も三軒くらいあって結構繁盛していたようです。
今では車で来てそのまま帰ってしまうので旅館はなくなってますね。
風光明媚でいいところではあったのですが、
やはり東京に行きたかったですね。
20歳の決断でした。
今なら新幹線でヒューと行ってしまう広島ですが、
当時はとにかく東京は遠かったんですよ。
やっと東京へ着いて姉のところへ転がり込みました。
やはり若さですかね、
あまりくたびれたという感じはなかったです。
姉のところに到着したのはいいのですが、
問題は仕事です。
いろいろ就職口を求めて求人などを見ていったんですが、
女子の就職で一番重要視されていたのが、
そろばんができるかどうかでした。
私は、そろばんは全くできませんでしたよ。
小学校でほんの少しやっただけ・・・。
姉は住宅公団に勤めていたのでご飯は食べられましたけど、
そうそうフラフラしてるわけにもいかないので、
いろいろ探すんですがやはりそろばんの壁が厚くて、
なかなか見つからない状況でした。
見かねたのかどうか、
隣に住んでいた奥さんのお父さんがちょっとした企業の社長さんと、
鹿児島で同郷だということで紹介してくれることになりました。
8月に中途採用の試験があるから受けるようにという話でした。
それにしてもそろばんも何もできないのに受かるのかなと思っていましたが、
なんと合格で採用されることになりました。
これこそまさにコネ採用ですよね。
入社した新入社員でそろばんができないのは私だけ。
どうなるのかなと思いましたが、
それはそれでよくしたもんでちょうどよく需要がありました。=つづく=
満州時代の子供のころの写真です。どの子が私か分かりますか・・・。
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