That エッセイ once again
(一) (二) (三) (四)
当教室に在籍して早18年。
アンサンブルにも参加して元気にギター弾いている。
マダムにギターを始めたころの思い出を、
以前語っていただきました。
今回再び掲載したいと思います
大陸育ちのお話は興味が尽きない。
もう一度詳しくお話していただき、
加筆しながら紹介したいと思います。
かなり貴重なお話であり、
歴史の証言の意味合いもあります。
=満州時代の思い出(五)=
母が亡くなってしまって子供たちが五人残されました。
帰国までもう少しのところだったので、
母の無念は計り知れないものがあります。
もうすぐ帰国できると非常に喜んでいたんですね。
母が一番喜んでいたと思います。
好事魔多しと言いますが、
一番喜んでいた母の身に降りかかってしまいました。
母が亡くなった後は一番上の姉が中心となって生活してました。
姉はその当時、引揚げのための組織の民会で仕事をしてました。
給金は出るのですが、ほんと少ないもので、
それで一家が生活できるわけでもありません。
しかし、そんなときでもうまくしたもので、
壺が売れたんですね。
母が存命中も路上で売って稼いではいたのですが、
とにかく貰ったり買ったりなんですかね、
引き戸を開けるとたくさんの壺がありました。
この壺を売ったりしてたんですね。
中国人は、なぜか壺に大いに興味を示して、
けっこう高値で買っていくんですよね。
この時には華僑が入ってきていて、
とにかく高値で買いあさっていくんですね。
それほど高級な壺でもないと思うのですがよく売れました。
この帰還するまでの間にも、
馬さんは両親を失った私たち兄弟姉妹を、
非常に気にかけてくれて、
町内会長や組長にも、
「この子たちは両親とも亡くなってしまってるので、
よろしく頼みますよ」と折に触れて頼んでくれました。
ホントに馬さんには感謝しかありません。
その後、蒋介石の軍は毛沢東の共産軍に敗れてしまって、
台湾に逃げていったわけですが、
その後どうなったのかと今でも気になるんですね。
無事に脱出できたのならいいのですが・・・。
食べ物もこのころになると中国人の露天商などが出ていて、
それほど苦も無く手に入れることができるようになってました。
だいぶ落ち着いてきたということですね。
母が亡くなって三か月くらいがたったある日。
日本への帰還の話が舞い込んできました。
たった三か月というところで、
一番楽しみにしていた母は亡くなってしまったのです。
なんとも理不尽なものですね。
とにかく帰還ということで身支度です。
一番残念に思うのは写真です。
兄弟姉妹の写真は母が一人一人アルバムに綺麗に整理して、
張って持たせてくれてました。
しかし、新彊の高等師範学校の寄宿舎から家に戻る時に、
家に送る荷物ということで、
布団の間にアルバムを挟んでしましました。
このような事態になって荷物が届くわけでもなかったのですが、
そこまで考えが及ばず写真はそこで無くなってしまいました。
これがとても残念な記憶として残ってます。
生まれたときからの写真はここで失われてしまいました。
市内の写ってる写真を持っていると、
検閲の時に怪しまれるということで、
ここでもほとんど焼き捨ててしまいました。
身の回りの物をとにかくリュックに詰めたという感じですね。
このころには軍隊や軍属は真っ先に逃げてしまってましたが、
真っ先に逃げたのはいいのですが、
それこそ検閲で身ぐるみはがされるように持っていかれたそうです。
中国兵が検閲をしていたと思うのですが、
使えそうなものや高価なものは全部持っていかれたそうです。
朝鮮ルートでも逃げた人たちがいて、
この脱出行はかなりの苦難があったようです。
まともに船に乗せてもらえなかったり、
道を通してくれなかったり・・・。
なかなかすんなりとはいかなかったようです。
まあ、それまでの恨みつらみがありますからね。
ある有名女優の話だと、
船を出してもらうのに闇舟を大金を払って調達し、
日本海を渡って日本の港まで逃げたという話を聞いたことがあります。
朝鮮も北と南ではかなり事情が違ってるようでした。
北から南へ逃げていく途中でも嫌がらせなどがあったようです。
日本の支配の影響は今も続いてますよね。
わたしたちは市内に住んでいたことがほんとにラッキーだったんですね。
開拓団の人たちのような状況にはならなかったんですよね。
両親を亡くして兄も生死が分からない状況ではありましたが、
帰還することができるところまで来ました。=つづく=
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