宮尾さんの
ジャムって語ろう、ジャズ
宮尾聖晴氏
−いよいよニューヨークへ、着くなりいきなりジャズクラブ直行−
しかし、夢は持つものですね。
30歳になったころ上司から、
ブラジル・サンパウロかアメリカ・ニューヨークかどちらか駐在せよと命ぜられました。
それは私にはサンバをとるかジャズをとるかの選択に思えました。
仕事としては当時ブラジルのほうが面白そうでしたが、
是非ニューヨークに行かせてくださいと返事したのは言うまでもありません。
1974年6月、ニューヨークに赴任しました。
わざわざ土曜日を選びました。
これも実は不謹慎な計画があったからです。
当日、マンハッタンのホテルにチェックインするなり、
まずやったことは、
ニューヨークタイムズを買いエンターテイメントのジャズライブ欄のチェックです。
運良く6thアベニューの有名なクラブ、
ハーフノートというところで当時コルトレーンとも共演していた人気絶頂のピアニスト、
マッコイ・タイナーのライブがあるのをみつけ、
部屋をとびだし、現場へ直行しました。
夢にまでみたマンハッタンの一流ライブハウスでの一流プレーヤーの演奏、
マッコイタイナーは、得意ナンバーSatin Dollなど弾きまくりまさに感激でした。
ゲストも超豪華で、あのウエザーレポートのリーダーでキーボード、
ジョーザビヌルがでてくる始末。
初日からこんなことでよいのかな!?。
と思いながらも時を忘れ夜遅くまで本場のジャズを堪能しました。
帰りぎわにマッコイタイナーに強引に話しかけ、
コルトレーンとの競演の経験などを聞いたところ、
むずかしくて肩こりがとれんよ(コルトレン)
というようなことを言っていたような気がします。(親父ギャグではありません)。
そのころのマンハッタンは治安もわるく、
夜の日本人の一人あるきは危ないと言われてましたが、
そんなことはおかまいなし、かなり遅くホテルに帰ってみると、
先輩からのメッセージがとどいていました。
そういえば先輩の家に呼ばれていたっけと思い出し、
あわてて翌朝電話して詫びをいれる始末。
こっぴどく怒られてしまいました。
ハーフノートには後日談があります。
それから数カ月後、また、ふらりと同じ場所にいってみたところ、
何と女性の足が天井に向かって伸びている光景が目にとびこんできたではありませんか。
店の従業員に聞くとつい最近、
ジャズは儲からないからやめてストリップショウに切り替えたとのことでした。
あの名門のジャズクラブがおまえもか!と思わず絶句しましたが、
それはそれとして、小生も男、ついつい見てしまったのです。
やはりジャズのほうが圧倒的によかったといっておきましょう。
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