That エッセイ once again
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当教室に在籍して早18年。
アンサンブルにも参加して元気にギター弾いている。
マダムにギターを始めたころの思い出を、
以前語っていただきました。
今回再び掲載したいと思います
大陸育ちのお話は興味が尽きない。
もう一度詳しくお話していただき、
加筆しながら紹介したいと思います。
かなり貴重なお話であり、
歴史の証言の意味合いもあります。
=満州から東京へ(十二)=
博多湾に入っていよいよ上陸の順番が来ました。
いざ上陸というところで海に飛び込む人がいたんですね。
慌てて助けようと後を追って飛び込んだ人がいたんですが、
結局、先に飛び込んだ人は姿が見えなくなったままになりました。
大陸に渡った人たちというのは、
内地いては行き場所がなくなった人が多かったんですよね。
農家の次男三男とか、わかけありの人だったりです。
日本に帰ってきても、
その後どこにも行く当てのない人がかなりいましたね。
そのまま博多にとどまった人がかなりいたようです。
われわれ姉妹と弟は両親もいないので、
親せきの家に預けられることになってました。
父親の会社の人が一足先に帰国していて、
話しをまとめてくれていました。
親戚といっても父親の親せきは原爆で皆死んでしまっていたので,
母方の身内に預けられることになりました。
二番目の姉だけは許嫁がいたので、
許嫁本人はまだ帰ってはきてはいなかったのですが、
家族は姉を引き取りたいということで姉はその家に行きました。
わたしは、姉の弟が養子に行っていた、
広島の家に預けられることになりました。
姉の弟本人は硫黄島で戦死していましたが子供が二人いて、
その子たちと一緒に生活することになりました。
いざ広島の駅についてびっくり仰天です。
まったくなにもありません。
見渡す限りなにもありません。
はるか彼方に山が見えるだけです。
原爆ですべてが破壊されたんですね。
駅の前の道の角に、
今でいうコンビニのような小さなお店が一軒ありました。
ほんとに一軒だけです。
食べ物も売っていたんだと思いますが、
なんだか得たいが知れないという話も聞いていたので、
空腹でも買う気はしませんでした。
引き取られる家にたどり着きましたが、
どうも回りの風景にはなじめませんでしたね。
なんだか目の前の風景が開けてなくて、
凄く狭っ苦しい感じがしたんですね。
家の作りも軒が張り出していて陰気な感じがしました。
満州の見渡す限りの広い大地で育ったわたしには、
息が詰まるような感じがしたんですね。
おばさんにはいろいろ教えてもらって、
ほんとにお世話になったと感謝しています。
でも、とにかく家に着いてすぐ嫁に行けという話が出て、
これには閉口しました。
女学校は終わっていたので、
上の学校にも行きたかったので言うと、
女はそんな上の学校に行かなくてもいいと言われて、
裁縫からお花など花嫁修行です。
19歳になるころは見合いの話もどんどん来る状況になってしまって、
ほんとに困ってしまいました。
この年齢で嫁に行く気はさらさらないので、
毎日憂鬱でした。
次々と舞い込む結婚話に嫌気がさしてきて、
ついに東京へ行く決心を固めました。
おばさんにはほんとに世話になって申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、
簡単な荷物をまとめて東京行きの列車に飛び乗りました。
特に姉のところへ行くという以外なんの当てもなかったのですが、
二言めには嫁に行けという話から逃げたかったのですね。
当時山陽本線で広島から東京までは一昼夜かかりました。
まんじりともせずに座席に座ってました。
東京について姉の住んでる部屋に転がりこみました。
この当時はものすごい就職難で、
男の人の就職口も大変な時代です。
女子の就職というのはまず皆無でした。
女子の就職でまず最低限必要なのはそろばん。
そろばんが出来ないとまず就職口はありません。
わたしは女学校時代にほんとに少し習ったくらいで、
まったくと言っていいほどそろばんはできませんでした。
この状態ですからいくら探しても就職先は見つかりませんでした。
勢いよく東京へ出てきたのはいいですが、
なんとも途方に暮れる状況でした。=つづく=
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