That エッセイ once again

                               

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当教室に在籍して早18年。
                     アンサンブルにも参加して元気にギター弾いている。
                      マダムにギターを始めたころの思い出を、
                       以前語っていただきました。
                        今回再び掲載したいと思います
                           大陸育ちのお話は興味が尽きない。
                            もう一度詳しくお話していただき、
                             加筆しながら紹介したいと思います。
                               かなり貴重なお話であり、
                               歴史の証言の意味合いもあります。



       
=満州時代の思い出(八)=

 われわれの引き上げは錦州の収容所だったのですが、

その前あたりまでは大連だったようです。

そこから朝鮮を縦断して引き上げるということだったようです。

しかし、終戦も一年経ったか経たないくらいで、

朝鮮を縦断して引き上げることができなくなったようです。

それと大連までは遠くその間に、

ソ連兵や中国兵などに襲われたりして危険になったんですね。

大連はソ連兵でいっぱいになったようです。

そこで錦州の収容所に場所が変わったということです。

錦州は私にとってはまったく知らない土地でもなかったんですよね。

父の仕事の関係で錦州の小学校へ通っていたことがあって、

錦州の近くにはコージョという温泉場があり、

そこに陸軍の病院があったんですね。

そこへ時々慰問に行っては、

兵隊さんの前で歌ったりなんだりしたんですね。

兵隊さんは皆故郷へ家族を残してきている人ばかりでした。

私たちを近くに呼び寄せては一緒に写真を撮ったりましたよ。

けっこうたくさん写真を撮って保管していたのですが、

新京の女学校を去るときに、

チッキで送る布団の中に入れたまま、

それきり行方知れずになってしまいました。

返す返すも残念で仕方ありません。

新京というのは今の長春です

その当時は、満州国の首都でした。

満州国皇帝の愛新覚羅溥儀がいたんですね。

その奥さんはアヘン中毒だったんですよ。

その当時は中国人はほとんどアヘンをやってましたね。

蔓延していたと言った方がいいかもしれません・・・。


 そういえばこんな思い出もありますね。

私は撫順で生まれたのですが、

小さい時は兄の後ばかりついて歩いてました。

その頃はマンホールの形が四角だったんですね。

ある時兄と友達がそのマンホールの狭いところ飛んで、

遊んでいたんですよね。

私はチビでしたが負けず嫌いで兄の後にそこを飛びました。

幅が狭かったのでそこは飛べたんですね。

今度は兄たちが幅の広いところを飛んで見せたんですね。

よし!私もと私も飛んだんですね。

残念ながら向こう側には届かず、

マンホールの中に落ちてしまいました。

兄は大声で「やめろ!」と言っていたのですが、

負けず嫌いの私は飛んでしまったんですね。

蓋が開いていたマンホールに見事落ちてしまいました。

兄は大声で母を呼びました。

ビックリした母が坂道を走り下りてきたのですが、

途中で貧血を起こして倒れてしまったんですね。

私はマンホールの工事の人に助けられて、

泳げはしなかったのですが水もそんなに飲んでなく、

病院に連れていかれたのですが、

入院することもなかくどうということもなかったのですが、

母は貧血で倒れてそのまま入院してしまいました。

申し訳なかったかなとも思いましたが、

母が入院するとは思いませんでしたよ。

その母も帰国する話が出たときはもう病気になっていて、

病院船の乗船手続きをしたのですが、

間に合うこともなくあの世へ旅立ってしまいました。


 話がちょっとそれましたが、

錦州の収容所には7日間いました。

ここに入るときは消毒液を全身にかけられました。

動物のかけるのと一緒です。

これはなかなかみじめなもんですよ。

洋服の上からお構いなくかけられます。

いい洋服などは皆着てもいないので、

かけられてもそのままです。

食事はとにかく厳しくて前にも書きましたが、

おじやのようなご飯の上に昆布の芯がそのまま乗っている代物です。

食べた途端下痢です。

そこでばったり驚き!の出会いがありました。

民会の人たちとバッタリ会ったのです。

民会というのは住友金属の互助会的な組織でした。

姉が住友金属の事務を手伝いに行っていた関係で、

知り合いも結構いました。

その人たちと収容所でバッタリ会ったのです。

そこにいた医師の方が下痢止めの薬をくれました。

効果てきめんですぐに下痢は収まりましたが、

その医師の方は絶対に他言しないようにと言ってました。

薬自体それほどあるわけでもなく、

医者と分かると連れていかれて、

いつ帰国できるかもわからなくなるんですね。

それを凄く恐れていて、

他言しないようにときつく言われました。

弟は小学校3年生くらいだったでしょうか、

探検してくると言って、

そこいらじゅう走り回ってましたが、

収容所の日本人の下働きの人に気に入られて、

なんと白米のおにぎりをもらってきました。

しかし、我々の状況を見ていた周りの人たちは、

我々が良い状況にいると言って妬むんですよね。

確かに幸運が続いたことは確かです。

馬さんにはずいぶん助けてもらいましたし、

収容所でもいい出会いがありました。

しかし、こういうところでも妬みというのは生まれるんですね。

姉たちはそこでもつらかっと思います。
=つづく=



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