ギターの歴史




   >ヒッタイトとバビロニア<


   
   (紀元前1400〜1300)ヒッタイトの時代
アラジャ・ヒュユク遺跡で見つかった最古のレリーフ

この楽器は、亀の甲羅やかぼちゃを縦割りにした開口部に、

毛皮や皮膜を張り次にその胴体に棹を串刺しにして、

棹の一方から他方へ弦を張る。

このレリーフには垂れ下がった房が認められる。





(紀元前1900年頃)バビロニア時代
エシュヌンナのテラコッタ・レリーフ



(紀元前1800年頃)バビロニア時代
イシュチャリのレリーフ

この二つのレリーフは年代差を越えてよく似ている。

両方とも串状ネック楽器であり、

どうは天然の空洞から出来ているように思える。

イシュチャリのレリーフを見ると、

垂れ下がった房が認められ、

弦をネックに結び付けている様子が分かる。

これら上から三つはプレクトラムで演奏されていた。

これらの三つの楽器はギターという単体の楽器の先祖とはいえない。



>エジプト<



(紀元前1350〜1300頃)エジプト
サッカラのレリーフ

ヒッタイトのエジプト進入によって、

エジプトに「串状ネックリュート」が現れる。

リュートを弾いている女性は、

プレクトラムをつまんでいる。

そしてそれが落ちないように、

楽器の結び付けられている。

これはアラジャ・ヒュユクのレリーフにも認められる。


このプレクトラムを使用していることは、

楽器の発展史とはなんら関係はないが、

演奏技術技術の習慣を見て取ることが出来る。

また、これによってこの時代の描写の正確さを裏付けてもいる。


このエジプトの串状ネック・リュートの場合も、

胴には天然の空洞が用いられており、

なんら楽器の発展を物語るものではない。


こうなると人口の共鳴胴が出現することは、

楽器の発展のうえで非常に重要な役割を演じたことになる。





(紀元前300年頃)
コプトの刻み入りリュート

コプト人の刻み入りリュートは、

ハンス・ヒックマンが「本物のギターにとっての先駆者」

と呼んだものであり、

アレキサンダー・ベロウが「コプト人のギター」

とさえ呼んだものである。


これはもはや天然の空洞から出来ているものではなく、

木材から削りだされ、共鳴胴には毛皮ではなく、

木の板が貼り付けられている。

つまりこの楽器は、

平らな底板と表面版、長いネックと横板からなり、

そしておよそ説明がつかないことだが、

わき腹のところがえぐられている。

これがヒックマンの断定的なコメントのきっかけになったものである。


しかし、この楽器が現代のギターに結びつくことはなかった。

この楽器のくびれもほんの短いエピソードに過ぎず、

結局この楽器はまったく子孫を残すことはなかった。



>ギリシャ<



(紀元前475年頃)
リラのレッスン。
壁にキタラがかかっている。


ここに登場するキタラは、

ギターと名称は似ていてもあまり関係のある楽器ではない。

ギリシャのキタラは、リラ族の楽器であり、

特定の楽器を指しているわけではない。

本来のキタラとその仲間のファルミンスクに適用される、

一種の集合概念である。

互いにこんがらがった事情があるにせよ、

この二つの楽器にはなんら関係がない。


しかし、後世のギターと多くの特徴を共有する、

別の楽器が古代ギリシャにあった可能性はあったといえよう。

特に強調しておきたいのは、

ギターについて確認されている二つの特徴が、

ギリシャのこの時代に形成されたか、

少なくとも準備された可能性の事実である。


一つは、共鳴胴が板で組み立てられるようになったこと、

二つ目は、接着されたブリッジを持つようになったことである。
(エリトレアのテラコッタ参照)


これらの二つの成果は、今後の発展をひとまず可能にするものであった。

胴をさまざまな木片で作るようになったことは、

表面版に硬い材料が使えるようになり、

ブリッジの接着を可能にしたのである。


しかし、人口の共鳴胴と接着されたネックという新しい楽器構造では、

静力学上の問題は解決されていないという、

ニッケルの見解は正しい。

共鳴胴とネックの接点は、

弦の張力に対する弱点となり、

楽器がバラバラになるか表面板がはがれる危険がある。

側面のくびれは堅牢さを増すというのは正しい。

しかしこのギリシャの図からは、

それは見ることは出来なかった。




(紀元前300〜200年頃)
エリトレアのテラコッタ





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