My life in guitar music
長井 浩氏
【第4章 ギター部時代(その2)】
=ブリーム先生とフーガの技法(その一)=
ギター部在籍中からプロのギタリストの演奏会にも出掛けるようになった。
日本人のギタリストの場合はどうしても、
中川信隆氏のような関西在住のギタリストが中心になったが、
外国人演奏家は、通常東京に来たら稼ぎついでに大阪にも寄るので、
首都圏在住の人とほぼ同じ条件で聴くことができたのである。
そして、初めて聴いた外国人演奏家がなんとジュリアン・ブリームだったというのだから、
今にして思うと超ラッキーってやつである。
例によってネットで調べてみると1979年にブリーム大先生は2度目の来日をしておられる。
高校3年生の初夏のことである。
第一回の来日のときのプログラムは当HPの資料室に載っているが、
2度目の来日のときも一回目同様リュートとギターを抱えての来日であった。
大阪の淀屋橋にあるフェスティバルホールという、
客席数2000超のコンサートホールでの演奏会であったが、
最近のコンサートホールより縦に長いホールであるから、
B席(かC席)で聴いた限りでは非常に音が小さかった記憶がある。
特にリュートは限界的に音の小さい楽器であるから聴く方も必死である。
ピアノやオーケストラのコンサートなら自分の呼吸音にまで気を遣う必要はないが、
このときばかりは全観客が文字通り息を潜めてブリーム先生のリュートに聞き入った。
ギターの演奏(なかでもバッハのリュート組曲第四番)もすばらしく、
一発でリュート音楽とブリーム先生のファンになったのであった。
ギター部の話から少し横道にそれたが、
1980年に無事大学に進学し、
もともと学問の道を究めようというような意図もなかったことから、
当然のようにクラブ活動への参加を計画した。
天文部という有力な候補もあったが結局安易にギター部に入部してしまった。
高校のときもそうであったが、
同好の士がまわりにいる限り、
クラブ自体の活動内容にはあまり拘りを持たないのである。
入ってから驚いたのは一つのクラブの中にバンドと称する小ユニットが三つあり、
新入生は秋の定期演奏会終了後にどこかのバンドに配属されることになっていた点である。
バンドはクラシック、ポピュラー、タンゴの三つであり、
それぞれ10名程度のメンバーを擁していた。
楽器構成は、クラシックバンドにバスギターを使用し、
タンゴバンドにコントラバス(ピチカートで弾く)を使用する他は、
すべてクラシックギターで演奏していた。
コントラバスは、
タンゴバンドに配属された選手が付け焼刃的に練習して演奏するのが常であったが、
僕が2回生(関西の大学では1年生、2年生のことをこう言う)のころ、
オーケストラ部のバス奏者が腰痛でオケの練習についていけなくなったとのことで、
たまたま寮の友人がギター部だったので、
そのつてでギター部専属のバス奏者として入部してきた。
当然弓を使って弾くこともできたのでタンゴバンドのレベルはこれを機に一挙に上がった。
新入生は秋の定期演奏会で1年生合奏というのをやらされるのが慣例となっており、
我々の年の曲目はバッハの「フーガの技法」(泣)の中の一つだった。