My life in guitar music



                
                   
長井 浩氏








       【第3章 ギター部時代(その1)】




 高校、大学で計7年間、

(それぞれの最終年度は受験勉強と就職活動の名目で実質的には活動から疎外されてはいたが)

学生ギタークラブに在籍した経験、

及びその後社会人の合奏サークルに数年、

また当ギター教室における十余年に亘る在籍期間から

ギター部またはギターサークルというものに対する経験だけは十分過ぎるほど積んでいると思う。

その中でも学生ギターサークルはかなり特殊で興味深い団体であるので、

思い出話中心にその様子を記述していいきたい。

 高校のギター部は前回にもその様子を若干描写したが、

外部団体との交流もなく、音楽の教師からも見放されている、

指導者もおらず、発表の機会も少ない、女子中心のサークルであった。

音楽を追求するという点では確かに物足りない環境ではあったが、

進学校の文化系クラブとしては、

まあこの程度のゆるさというかぬるさでちょうどよかったのだろう。

新入生歓迎会、卒業生追い出し会、

文化祭などの機会に講堂で、

ちょこちょこっと合奏曲を披露するのが音楽活動のほぼすべてであった。

しかし、その他、みんなで遠足に行ったり、

スケートに行ったり、京都の北野天満宮に先輩の合格祈願に行ったり、

そういう課外活動の部分が楽しかった。

 合奏環境はそのように甘いものであったが、

高校1年の秋の文化際で始めて講堂で、

クラシックギターのソロ(タレガのラ・グリマ)をやってから、

独奏にはずぶずぶとはまって行った。

弾けても弾けなくても楽譜を入手し、

弾けても弾けなくても弾いてみるという無茶苦茶なスタンスで取り組んだ。

「アルハンブラの想い出」の冒頭の左手、

(1,3,4で押さえる部分)がいくら頑張っても届かない状態でありながら、

この曲を一週間くらいで暗譜したのもこの頃である。

今思うと弾けているというようなレベルとはほど遠いのであるが、

当時は一応弾けていると感じており、

不思議なもので、それを繰り返していると少しずつマシになってくるのである。

極端にレベルの高い曲はさておき、

少し無理目のところを狙っていくというのが何事によらず上達の近道であると思っていたし、

現在でもほぼそう思うが、

将来的にプロを目指すような若い人は先生の言うとおりの曲をやっていく方が、

変な癖が付かなくてよい部分もあるだろう。

構成的には女子中心であってもソロにはまるのは男子に多い。

1年先輩にもそうとう入れ込んでいる人がおり、

アランフェスの1楽章の冒頭を始めて生身の人間の演奏で聞いたのもその人からであった。

ということで高校1,2年生のころからLPレコードと楽譜集め、

というか楽譜漁りが始まった。阿部保夫氏、鈴木巌氏の2枚組みアルバムも楽譜と一緒に入手したし、

セゴビア、イエペス、ブリーム等巨匠の演奏(録音)に始めて接したのもこの頃だった。


 楽器は親戚の家から無償で供与された茶色い楽器、

(いくらなんでも茶色い楽器という呼び方はひどいとは思うが一切情報がないのでしかたがない。

当HP内の別コーナーにはきら星のごとき銘器紹介などがあり、

白いギターとか茶色いギターとか幼稚園児レベルの表現にとどまっている自分が情けない)

を継続して使用していた。

例のフォーク・ギター(第2章参照)もたまにギター部の合奏で使用した。

クラシックギター部といっても音色的に寂しいときは、

コードをフォーク・ギターやスチール弦を張った卓上型竪琴状の楽器で鳴らすことがあったからである。

名称不明の後者はアタッシェ・ケースのような黒いケースを開けるとスチールの弦が何十本も張ってあり、

手前にコードネームを記したプラスティク製のキーがいくつかあり、

それを押下しながら弦をピックでかき鳴らすと、

シャラララーンというような感じで、

コードが鳴るという優れものと言っていいのか、

トホホと言っていいのか判断に困るような代物であった。

当時は何らかの名前で呼んでいたのであるが、

本稿執筆にあたって突如忘却の淵から蘇ったその楽器の名称だけは、

永遠に葬り去られたようである。






                            

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