My guitar sutories
〜第三回(社会への出発)〜
クラシックギター界を、去り。プラスチック金型へ(就職)
〔此処からは、しばらくギターの話は無くなります。結構悲劇な話も有ります〕
プラスチック金型と言っても分かる方は少ないでしょう。
品物(製品は沢山見ている)携帯電話・電話機・パソコンなどの弱電部品・自動車の部品など、
素材がプラスチックで出来ている物です。
プラスチックの素材を、ドロドロに溶かし(熱)金型隙間に流すと型が取れ、品物になります。
プラスチック金型は、ハンコウと同じ様に逆文字、図面(製品図)を反転しなければなりませんでした。
計算は(sin con tan)の世界でした。当時、残業もMP10時、11時は当たり前でした。
金型の面白さを知り、ギターは、休みの時に、弾くぐらいになりました。
20歳からは、川崎(中原区)で一人暮らし、「一人暮しは、始めたら余計に残業が増えました・・・」
個人でパソコンを買いPC88、NEC製、ゲームやワープロなどをしていました。
23歳の6月に妹の結婚、披露宴で、弾き語りで『長渕の乾杯』を歌う事になり、
久しぶりに、ギターを握り、かなり緊張し汗が流れました。
27歳、武蔵小杉でアパートの大家と、家賃のことで、揉める
「家賃を支払いの日、仕事の納期日の為、朝4時頃まで残業になり、家賃はお昼ぐらいと思い、
自宅で仮眠を取っていましたら、朝7時頃に、「大谷さん」、「家賃は・・!」「トントン」「家賃は」と起こされ、
「昨日は、朝4時頃まで、残業しいてて、その足で持っていけないでしょう。それが、常識でしょう」
大家は、「4時頃でも良いので、持って来い!」そんな常識外れな事自分はできませんと言い、
それでも話が付かないので、不動産に電話、
「朝4時頃まで残業して家賃を払っていないのは確かだけど、自宅で寝ていたのですよ。
逃げた訳でもないし、契約の時前家賃を渡しているのにこの仕打ちはないだろう」と文句を言い、
その間合いで契約破棄に・・・
行くあても無かったので実家へ帰ることに(町田)・・・!
会社へは、車で通勤することに。この事が、悲劇の始まりでした。
今でも忘れません。
平成6年/6月28日の事です。
その日も残業で遅くなり時刻は12時を回った頃に帰宅する事になり、
工場長に駐車場まで送って頂き車で(デリカ)(社内で4WDの車が流行っていました)帰宅の途中、
0時45分頃、国道246号線、藤が丘付近に差し掛かった時、反対車線から、車が飛び込んで来たのです。
当然ブレーキも間に合わず、正面衝突、デリカは、ワンボックスでしたので、正面が押されると、もろ脚。
救急車は、すぐに来ましたが、正面が押され運転席に脚が挟まり「レスキュー隊が来てから救出します」
と、言われましたが、運悪く他にも事故があったようで、レスキュー隊が中々現場に到着出来ずにいました。
レスキュー隊が到着したのは、事故が発生してから、1時間も過ぎてからでした。
そして、事故現場から、目と鼻の先に在ります。
昭和大学藤が丘病院に搬送、緊急手術を置けることになりました。
しかし、緊急手術の人が入る為1時間後の予定になり、4時に緊急手術をしますと言われました。
手術室へ入る時にはすでに、家の両親が来ていたのは、びっくりしました。
母親からの一言は、「明日会社に連絡して置くから、手術頑張って」でした。
こんな時まで、仕事かよ・・・・!(どちらか言うと、母親の方が。仕事人間です)
物凄く痛いはずなのに、脳内麻薬のせいか、物凄く冷静でした。(事故が起こってから)
後に聞いた話ですが、右足大腿が折れていて、足首は、45箇所、複雑、ハグリ骨折でした。
その朝(夕方)目が覚め、工場長が面会に来て励みの言葉を頂きましたが、その次の朝のことです。
急変してしまい意識不明になりました。
工場長と社長は慌てて病院へ来たようですが、
両親はといえば、病院関係者が、自宅に電話を何回か掛けても連絡が取れずに困っていたそうです。
連絡が取れたのは、18時を過ぎてから病院関係者の電話で急変を知り慌てて病院へ来たようです。
病名は、かなり長い名前で忘れましたが、原因は、骨の中に脂肪分が在り、脂肪分溶け出し血液に入り、
脳へ行き、血管を塞ぐのがその原因でした。
脳の中の大きい血管の中で、脂肪分が詰まっていたら植物状態も覚悟して下さいと言われたようです。
意識不明になってから、2日目で何とか持ち直し、気がつけば、高圧酸素カプセルの中でした。
ICUに移動していて、隣の人は瀕死の重傷者でモニターの音がピ・ピ・ピと鳴り、
凄く気になり何時ピーと、鳴り響くか、気が気では有りませんでした。(怖かったです)
それからの10日間辛くて、高圧酸素に入るのに、重りを下ろさないと入れませんでした。
大腿骨が折れている為、膝上の大腿骨に金具を刺して、重りで大腿骨を引っ張るのです。
これを外す時が物凄く『痛い』のです。
一般病棟に戻り、2回目の手術で足首、(足指串だらけ、足首ボルト)3回目の手術、
大腿(パイプ)と済まし2週間後、昭和大学藤が丘病院から藤が丘リハビリセンターへ
毎日リハビリでした。何でも無い左足の足首に2.5sの重りを付けて、
足上げ50回、腹筋50回、右足は、膝上の大腿骨に金具を刺し重りと動かせませんでしたので、
足は細く成っているし、膝は曲がらないので、まずは、膝曲。(辛)
2ヶ月後ようやく傷も直り、足首、足指の金具がとれ右足も鍛える事に成りました。
3ヶ月後、ヤット、退院する事に成りました。この頃、会社では、ハワイに旅行・・・
「飛行機落ちないかな?・・・・!」と、思っていました!『クソ』
その前にも会社の旅行でハワイ・グアムに、行きましたが・・・!
毎日酒(ビール)を飲んでいたら、かなり太ってしました。
それから3ヶ月後、再入院することになりました。アキレス筋が縮まり、歩きにくい為、
アキレス筋を伸ばす手術と足首のボルトを取る為です。
手術後1ヶ月でギブスが取れ、また膝が曲がらない!膝曲げのリハから・・・・!
数ヵ月後、大腿のパイプを取る手術をして、ようやく会社復帰することが出来ました。
リハビリで病院へ一日おきに行かないといけませんでした。
(このことで、誰かが何か行ってくる予感はしていましたが、それが社長だとは、思いもしませんでした!)
会社復帰してから、半年が過ぎようとしていました。
ある日、突然『明日から、車では来るなと』、警告!「訳も語らず」で、
復帰してから2・3ヶ月ぐらいしてから、
「大谷君は仕事してない、今何をしているのか?」と、社長が言ってきたのです。
「復帰をする際、条件があります。事故前のように、残業も出来ない、重いも物も持てない。
リハビリで病院へ一日おきに行かないとなりません。自分が復帰する事で、足手まといになりませんか」と上司に相談
その席に、社長も居たのに言ってきたのです!
突然『明日から、車では来るなと』『来るなと』言われたので、次の日から出社しませんでした。
11年も勤め、社長の性格は分かっていました。
社長は、自分の性格が分かっていなかったみたいでした。
しかし工場長には分かってもらえていたと思います・・・・!
事故前かなりよく飲に行きましたので・・・・
それから1年後、想い切って日立造船情報システムのGRADE(CAD)を購入し、
金型の設計で自営をすることに、決めました。
*【仕事内容】金型の設計、図面(製品図)を反転して(ハンコウと同じ様に逆文字なる)金型の加工図を製作し、
3Dモデリング(立体)を作り、加工データを作る
始めは、前の会社の仲間と一緒に経営し、3年目に事務所を自宅に移転。
時間が空いた時に、再びギターを弾く時間が出来、有る程度指が動く様になり、
2003年10月2日、再びギターの世界へと思い、インタネットでギター教室を検索していたら、
偶然に野村ギター教室のホームページを発見しました。
2・3分後には、メール送信ボタンを押していました。
翌日20時ぐらいに、先生から連絡がきて、明日会うことに、約20年ぶり再会です。
ここまで語ってきた勢いで、語ってしまおう!・・・・・・・ちょっとした恋の話しです(*^_^*)
23歳の時、会社の後輩M君からの紹介で、Yさんと出会うことになりました。
Yさんは、4歳、年下で、よくおしゃべりが好きで、カラオケや映画が好きな女の子でした。
しばらく付き合うことに!
1回目のデートでは、映画を観に行った、記憶があります。
(題名は?)コメディー物、だったと思います。
2回・3回とデートを、重ねて行きました。
毎日の長電話(当時携帯電話の無く。メールも無い時代でした)
1年が過ぎ、ある日Yさんは、体を壊し、実家に帰ることになりました。
(急遽)連絡先も聞けず・・・!
『後に、友達の話では、仙台に居る親が、迎えに来て、すぐに連れて帰ったそうです』
それ以降会う事も無く、連絡も取れないようになりました。
25歳いなり、仕事も大分自信が付き始めたころ、同じ職場の小父さん(Sさん)、
遠回しに、『まだ遊び足りないか?』と言われ、意味が分からず、
思わず『まだ、まだ遊びたいです』と言ってしまいました。
よく考えてみたら、その小父さんには、お嬢さんがいて、身固めてみないかと、意味していたのです!
(それなりに、小父さんの家に行き、食事やお嬢さんにも会ったりして、
何かの反応などが、会ったりしていれば、意味が分ったと、思いますが、
いきなり『まだ遊び足りないか?』と言われても?????)----つづく----