マダムI・T
=思い出(その五)=
夕暮れが近づいてきました。
船は夜、出港する予定です。
いよいよ大陸ともお別れです。
陽は落ちてきて空が真っ赤に染まりました、
それはそれは、見たこともないような美しさでした。
その美しい真っ赤な夕陽は、今も忘れることが出来ません、
地平線に沈む太陽とその赤い色に染まっていく風景は、
大陸という場所もあるのかもしれませんが、これ以降一度も見たことがありません。
その夕陽はホントに美しく、今でもハッキリ思い出すことが出来ます。
何人かの人は船の手すりギリギリまで行って絵に書いていました、
戻ることのない大陸の夕暮れです。
私は満洲生まれの満州育ちなので日本はほとんど異国です、
この船のほとんどすべては日本へ帰る人ということですが、
私には帰るという実感は正直あまりありませんでした、
子供のせいもあるのでしょうが、故郷へ帰るという感慨は湧いてきませんでした。
実際に日本の地へ着いて落ち着き先まで汽車で行ったわけですが、
回りがいやに狭く感じられ日本の建物が少し陰気な印象を受けました、
日本の家屋の軒がせり出している造りのためだと思います。
しかし、まあ、そのまま今日まで、日本で生活してきたわけです。
真っ赤な夕焼けが過ぎて徐々に闇が広がっていく頃、
ついに船は岸を離れ始めました、
しばらくゆっくりと進むうちに当たりは闇に包まれて、船の音だけが響きます、
あまり誰も話しもせずそれぞれ船底の部屋にいたり甲板に出たりしていました、
私はとても船底にいる気分にはなれず、ほとんど甲板に座っていました。
しかし、誰かと会話をしたという記憶はありません、
子供ということもあったと思いますが、ただ黙って海を眺めていました。
船はホントにゆっくりで、時々止まったりしてなかなか進みません、
さすがに皆退屈してきたのか、甲板に皆出て来て座り始めます、
ほとんど隙間のないくらいです。
何が始まるかと後ろで見ていると、のど自慢が始まりました、
ギターを弾く人が乗っていたんでしょう、その人が伴奏をして順番に箱の上に立って歌います、
「誰か故郷を思わざる」はこういう場合必ず出るもんですが、やはり得意に歌う人がいました、
貨物船ではありましたが、立派なマイクが立ててありました。
最後に忘れられないのは、藤原歌劇団の斉田アイ子さんが乗っていて、
ギターの伴奏で歌曲を何曲か歌っていました、曲名はさすがに忘れてしまいましたが・・・・・
ギタリスとも一緒に乗っていたのです。
子供の私にとって、そういう人がこういう船に乗っていたというのは驚きでした、
たぶん大陸に慰問に来て、そのまま終戦になったのではないかと思います。
私は演歌はあまり好きではなかったので、ほとんど興味はありませんでしたが、
この光景だけはハッキリと覚えています。
それほど離れているわけではないと思うのですが、
船は、かなりの日数をようして博多湾に到着しました、
帰還船は博多のほか佐世保にも到着しました、
しかし、もし佐世保に着いたらその後もかなりの遠回りになるので、博多でよかったのです。
博多湾に入ってもそれからがまたウロウロしていてなかなか接岸しませんでした、
あちこちから帰還船が帰ってくるので順番待ちで時間がかかったのだろうと思います、
結局、出港して一週間かかってようやく上陸することが出来ました。
船の到着に合わせてあったのか、行き先別に列車が待っていました、
その列車に兄弟そろって乗り込みました、ついに日本の地に到着です。
ここで思い出も終わりです、長らくお付き合いありがとうございました。
最後に兵隊にとられて行方が分からなかった兄は、その後、無事に帰ってきました、
ソ連軍に連行されたのですが、ソ連領には入らず満州に留まっていたようです、
列車に乗せられて連行される途中、列車が止まると脱走する人がいて皆撃たれて死んだそうです、
兄は小さくなっていたのか最後まで無事だったということです、帰ってきたときは驚きました。
二番目の姉はこの時すでに結婚していましたが、旦那さんは陸軍航空隊のパイロットで、
やはり連行されて行方知れずだったのですが、ロシア語が出来たために無事でした、
通訳として使われていたということです。
この後、東京へ働きに出てギターとめぐり合うわけです。
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