マダムI・T
=思い出(その四)=
コロトーの収容所に入ってしばらくしてから、
なんともとどろいためぐり合いがありました。
奉天市の民会の人たちとバッタリ会ったのです。
民会というのは住友鉱山の職員の人たちで、
奉天市内に住んでいる人たちが集まって作っていた互助会的な組織です。
敗戦ということになってその組織の活動も活発になっていました、
姉が住友鉱山に勤めていた関係から事務を手伝ってほしいと言われて、
手伝いに行っていたのですが、引き上げということになって、
その後は分からなくなっていました。
その民会の人たちとバッタリ同じこの収容所で出合ったのです、
ビックリしましたね!!
その中にいた医者の方が物を食べると下痢をする私の状況を知って、
こっそり薬を分けてくれました、
その薬は効果抜群で下痢はたちまち回復しました、
しかし、このことは絶対に他言無用といわれました、
その薬自体、それほど量を持っているわけではないのと、
その人が医者だと分かると、治療にまわされて帰国が遅れていくことになります、
それは非常に過酷な状況におかれることになり大変でした、
それを非常に恐れていました。
しばらくして、ついに帰国船への乗船の日が決まりました、
これで帰れると思いました。
地区の班長から乗船についての説明が簡単にあり、
われわれの班の人たちが荷造りを始めます。
荷造りが終わってそれぞれ荷物を担いで乗船です、
姉の首には両親の骨壷がしっかり掛けられていました。
乗船というところで皆足止めされ、
米軍の兵士がタンクを背にしょってわれわれめがけて消毒薬を吹きかけました。
農家などで稲を消毒するときに使う大きい霧吹きのようなものです、
だれかれかまわず一束づつという感じで吹きかけました、
猫の子に吹きかけるようなものです、さすがに悔しさでこの時は唇が震えました、
その兵士を横目で睨みつけていました、悔しかったですね。
妹は肺浸潤にかかっていて体が弱っていたのか、このDDTにかぶれてしまい、
顔が真っ赤に腫れ上がってしまいました、なんとも可愛そうでした。
船は貨物船でおおよそ雑然としており、きれいとは言えませんでした、
われわれは船底の貨物用のスペースがあてがわれました、
貨物船ですからスペースは広いのですが喚起がほとんどなく、
秋とはいえ暑苦しくてまいりました。
とても中に入る気がせず甲板に出ていました、
姉は、妹が衰弱して船底に横たわっていたので付き添って座っていました、
弟はあいかわらずチョロチョロしていて、船を探検していました。
メニューへ
topへ