マダムI・T
=思い出(その三)
コロトーの日本人収容所に到着しましたが、
姉二人は奉天を出てからここまで、
両親の遺骨をそれぞれの首にかけて肌身離さず持ってきました、
白木の箱の中に骨壷を入れてそれを布でくるんで首から下げる、
トイレにでも行くとき意外は、常に首にかけたままでした、
私も首にかけてみましたが、その重みで首が折れそうになりました、
この重い白木の箱を首にかけて、背中には荷物を背負ってコロトーまで引き上げてきました、
両親の骨をどうしても本国へ持って帰らなければという一念が運ばせたと思います、
日本へ上陸するまで首からかけていました。
その執念で、無事日本の地にお墓を立てることができました。
コロトーの日本人収容所というのは、かなりの規模で、
細長く、長屋の壁を全部取り払ったようなつくりでした、
地区ごとにその人数の規模によって軍隊式に小隊、中隊と呼んでいました。
ひとつの地区の人間が全部入る大きさですから相当なものです、
われわれは端っこに場所を割り当てられてそこに落ち着きました、
ここも隙間なく人が詰め込まれてる状況ですから荷物を置いて後は雑魚寝状態です、
年頃の姉たちは非常に警戒していてオチオチ寝ることも出来なかったと思います、
「目立つんじゃない!」ということをしつこいくらい言われていたりしていて可哀想でした、
しかし、ここでも出発する時の馬(マ)さんの一言が聞いていて、それほどの危険は感じずにすみました。
馬さんは今生きているのでしょうか・・・・・・
毛沢東に敗れて無事台湾に逃れたのでしょうか、
生きていたとしても相当なお年ですし、まったく消息を知る手だてはありません。
ただただ感謝するのみです。
収容所には引き上げていく日本人を当て込んでの中国人の露天が所狭しとビッシリ並んでいました、
中国で使用していたお金は内地では使えないと思われましたし、持ち込むことも難しい状況でした、
そのお金を当て込んだ商売が花盛りでした、
皆持っていけないことが分かっていましたから気前よく使っていました。
ここでの食事は困難を極めました、
大きな食堂に行って地区ごとに食べるのですが、
なんかあまり得体の知れないものが食事時に出されます、
どうにもそれが食べられずほとんど残しました、
我慢して少しでも食べるといきなり下痢をします、
下痢はここでは大敵で、コレラに罹ってると見られます、
そうなればもう帰還船に乗ることはだいぶ先の話になってしまいます、
誰にも言うなといわれてじっと我慢をしていました、
妹は病に犯されていましたから、ほとんど食べることも出来ず横たわったままでした、
骨と皮だけにやせ細って青い顔をしていました。
コレラに罹っていると疑われて、それが原因で乗れるはずの帰還船に乗れなかった人もいました。
コレラに罹ることを皆最も恐れていて、
苦しくてもまったく何も言わず黙って生活していました。
奉天にいて終戦になって食料がなくなったとき、
満人(当時はそう呼んでいました)の人たちが食べ物を売りに来るのですが、
消毒がしてあるわけでもありませんから、
どうも得体の知れないものも多かったように思います。
それを食べて腸チフスにかかる人がかなりいました、
そうなると薬はありませんから大半は命を落としてしまいました、
食糧事情は最悪でした。
母が命を落としたのは医者もいない状況でしたからはっきりしたことは分かりませんが、
肺結核ではなかったかと思います、
食糧事情の悪化と父親の死んだあとのプレッシャーと終戦で、
子供たちを抱えて食料その他を得るために物売りから何から走り回った結果だったと思います、
姉が住友金属の現地会社で働いていましたが、
その給料だけでは、とてもやっていくことは出来なかったと思います。
死んだ時は48歳でした、若かったのでシワもなくきれいな顔だったことを鮮明に覚えています。
一番上の姉にすべてを託した格好になりました。
姉は一番下の弟にしょっちゅう、
「男はあんただけなんだからしっかりして!」と言っていましたが、
チョロチョロしているだけでどこ吹く風というところでした。
まあ、姉達を見てて可哀想でしたね。
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