マダムI・T





                =思い出その三)=





 逃避行の列車は、漆黒の闇の中を時が止まったかのように

走行音だけを規則正しく刻んで走っていました

貨車の上にぎっしり詰め込まれたわれわれは

身動きを誰することもなくジッと座り込んでいました

闇を見つめていると

脱出する頃のあわただしい毎日が思い出されてきました


 隣の住人に馬(マ)さんという中国中央軍の中佐が住んでいました

この人は東京帝国大学を卒業して

日本の軍隊に志願したのですが中国人ということで拒否されて

日本人の女の人と駆け落ちをして中国中央軍に身を投じた人です

中国中央軍とは蒋介石の軍隊です

蒋介石は、結局毛沢東の共産党軍に敗れて台湾に逃げましたが

馬さんも奥さんと無事に逃げたのでしょうか・・・・・・

この馬さんにわれわれ両親を失った姉妹+弟は、ずいぶんお世話になりました

いよいよ逃避行という時に、この馬さんが自治会長にじきじきに

「この人たちを頼みましたよ、無事に送り届けてくださいよ」と、何度も頼んでくれました

何しろ両親も無く兄も行方知れずの状態のわれわれが無事にこれたのも

この馬さんのこの一言が大きくものをいったと思います

この一帯を支配していた軍隊の将官クラスの一言が大きかったのです

この馬さんには感謝してもしきれないものがあります

果たして共産党軍に敗れた後、無事に台湾に渡ったかどうか

今は知る由もありません


 もうひとつ思い出されるのはソ連の兵隊さんたちのことです

ソ連兵たちが奉天にも入ってきたのですが

このソ連兵たちはとにかく時計と万年筆を欲しがりました

見つけると強制的に奪っていきます

万年筆は、ポケットというポケットに挿して、時計は、手首から肩口まで隙間なく巻いていました

時計は止まると巻かないといけないのですがそのことを知らないらしく

止まるとかたっぱしから捨てていました、そういう知識がなかったと思います

ソ連兵はとにかく怖くて姿を見つけるとあわてて隠れました


 同級生でも住んでいるところによって明暗を分けました

われわれは満鉄の施設に住んではいませんでしたが

同級生の中には満鉄の施設に住んでいた人も数多くいました

この人たちが終戦と同時に住んでいるところから有無を言わせず、いっせいに退去させられました

物を運ぶことも出来ずに追い出されてしまいました、これはまた大変な出来事でした

退去させられても行くところがありません、あっちこっちに離散していきました

 同級生の中には軍隊関係の人もいて、これは終戦の声が聞こえる前に逃げていきました

まさにその時、その場所というのを考えずにはいられない情景でした

それでも、われわれは都会に住んでいたためにずいぶんラッキーだったと思います

自分とは直接知り合いはいませんでしたが

チチハル、黒龍江省方面にいた開拓団の人たちの引き上げがどのくらい困難を極めたか

考えただけでも寒気がするほど過酷だったと思います


 列車は、深夜コロトー(フールータオ)に到着しました

ここから収容所までは徒歩です、真っ暗な闇夜の中一糸乱れず列を成して歩いていきました

真っ暗だったと思うのですが道案内の人はよく迷わなかったと不思議です

妹はこの時、肺浸潤に犯されていて苦しそうでした

薬は飲んでいましたが、当時の薬ですからなんだかよく分かりませんでした

骨と皮ばかりにやせ細っていて、生きて帰ってこれたのが不思議でした

この時は、病気になると重症になりました

天地がひっくり返った状態ですから医者もいませんし、もちろん薬もありません

肺結核は特に恐ろしく、かかるとすぐに重症となり大体死んでしまいます

同級生の中にも命を落とした人がいたようです

妹はその一歩手前でした

まさに辛くも生きて帰還したという状況でした

歩いてるときに馬賊や匪賊に襲われてればまた終わりだったでしょう

馬賊、匪賊はいたるところに出没していました

ほんとに小さいときに馬賊の一人がつかまって交番に連れて行かれ

拷問を受けていたのを弟と見に行ったことがあります水攻めでした

馬賊、匪賊は毛沢東の八路軍と関係があると言われていましたから、拷問も過酷でした


 とにかく無事にコロトーの収容所に到着することが出来ました

収容所での生活がまたまた大変でした



                                   
〜次回は、収容所から乗船へです〜






                     
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