マダムI・T








                     =思い出(その一)



  
私は、父親が満州鉄道の技術者だった関係で中国の撫順で生まれて育ちました、

石炭の露天掘りをしているところです、当時は満鉄が経営してました。

見渡す限りの広い地平線があり

地平線に夕日が沈んでいくのはすばらしく感動的でした。

広い中国での仕事ゆえ父親に付いて幼いうちに3回学校を転向しましたが、

それ自体は特別気になりませんでした、

背は低いのですがなかなかの負けん気で男の子のようでしたから、

両親も気にも留めなかったということでしょう。

やはり一番大変だったのは太平洋戦争が終わって中国から内地に引き上げる時でしょう。

父親は戦争が終わる少し前に死んでしまいました、

残ったのは母親と子供たちです。

長男は徴兵検査に行ったまま終戦のドサクサで行方知れずになっていました、

すでに死んでしまったのではないかという話がありました。

とにかく戦争に負けてしまったわけですから、天地はひっくり返ったわけです、

まず食べ物を確保しなければなりません、

家の中に潜んでいるだけでは食べ物は底を付いてきます、

家にあるものをまとめて外に並べてそれを売っていきます、

特によく売れたのは壷です、なぜそれがよく売れたのかは今もってよく分かりません、

この時、すでに華僑が入ってきていて、その人たちが買いあさってるようでした。

特に良い壷ということでもないのにとにかく買っていきます。



 母は、私だけを連れて路上にござを敷いて壷を売るのですがとにかくよく売れました

女の子だと分かると危ないということで、バリバリの男の子の格好をしていきます、

それでも現地の中国人が怪しんで、ぬっと顔を近づけてきてじっと見つめます、

私は腕白だったのでそれが顔に出ていたんでしょうか、

見破られることはありませんでした。

われわれは市内に住んでいたのでそれほどのことはありませんでしたが、

郊外に住んでいた人達はかなり怖い思いをしたという話を聞きました、

街中の治安は中国中央軍が入ってきてからだいぶよくはなりました、蒋介石の軍です、

しかし、ソ連兵がいる時は外へ出ることも何もできませんでした、怖かったのです。

そのうちに母の体調が悪くなり、しばらくして死んでしまいました、

医者も薬もほとんど何もない状況であれば病気になればすぐに危なくなるわけです、

まったく途方にくれた瞬間です、

終戦の心労がたたったということでしょう。



  姉二人と妹、弟一人で身を潜めて生活していましたが、

ある日、内地への帰還の話が舞い込んできました、

それっとばかりに身支度を始めましたが、

市内の写っている写真を持っていると怪しまれるということもあり写真はすべて焼き捨てました、

アルバムを持ち帰った人もいたようですが、検閲があるということを言われていたので

われわれはすべて処分してしまいました。

ホントに身の回りのものだけを持って姉たちと満鉄の奉天駅に集合しました、

駅に着くと軍隊のような小隊、中隊という単位で集まり乗車を待ちます、

町ごと移動というようなものすごい人数でした。

姉妹と妹、弟だけでの出発でした、

私はそれほど怖いとは思いませんでしたが、姉たちはかなり不安だったようです、

若い女のカッコウをしていると危険だというのです、

しかし、とても女らしい格好とは思えません、髪の毛は三つ編みのおさげ髪、

着ている物も女の子がきるような色彩のあるものでもありません、

それでも状況が状況だけにそんな話があると恐ろしい気がしました。



昼間は危ないということで夜を徹して列車は走ることになってますから、

乗車を始めたころは夜が迫ってきていました。




                次回〜コロトーへと続きます〜






                   
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