That エッセイ once again

                               

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当教室に在籍して早18年。
                     アンサンブルにも参加して元気にギター弾いている。
                      マダムにギターを始めたころの思い出を、
                       以前語っていただきました。
                        今回再び掲載したいと思います
                           大陸育ちのお話は興味が尽きない。
                            もう一度詳しくお話していただき、
                             加筆しながら紹介したいと思います。
                               かなり貴重なお話であり、
                               歴史の証言の意味合いもあります。



       
=満州時代の思い出(八)=

 我々が引き上げを始めたのは、

終戦から一年ほどが経ってからでした。

軍関係の親に持つ同級生たちは、

終戦を待たずあっ!という間に引き上げていきました。

軍関係の人にはいち早く情報が入るんですね。

軍関係の友達はビックリするほど早くいなくなりました。

しかし、好事魔多しといいますか、

後から聞いた話だと、

いち早く逃げていった人たちは引き上げ船に乗るときに、

中国軍の兵隊が持ち物などを検査するのですが、

それこそバンバン物を取られて、

それこそ身一つにされての引き上げだったそうです。

我々が引き上げるときはもう取れるだけ取ったということでしょうか、

ろくに見もしないで通過させてました。

いちいち見ていくのが面倒という感じでした。

 錦州の収容所に到着して長屋のように長い建物に収容されました。

ちょうど長屋の部屋を仕切る壁を取り払ったような感じです。

一つの地区の人たちが全部入るほどの大きさがありましたから、

かなりの大きさだっと思います。

地区ごとにもその人数に応じて小隊、中隊と軍隊式に呼ばれてました。

 そこの隅っこをあてがわれてとりあえず落ち着きました。

隣と隔てる壁もありませんから雑魚寝状態です。

姉たちは年頃だったので、

非常に警戒していておちおち寝ることもできません。

「目立つんじゃない」ということを常に言われていて、

なんだか可愛そうなくらいでした。

しかし、ここでも出発する時の馬さんの一言が効いていて、

それほどの危険は感じずに済みました。

馬さんにはほんと感謝しかないですね。

毛沢東の軍に敗れて台湾に無事に逃げたでしょうか・・・。

この時はまったく何もわかりませんでした。

 ここで一番大変だったのがその食事です。

おじやのようなものの上に昆布の芯の部分が乗ってくるのですが、

細かく切ってあればともかく、

そのまま長いまんま乗って出てくるのです。

これはなかなかつらいものがありました。

とにかく無理やりにでも食べるのですがすぐ下痢になりました。

ここでは下痢をするのが一番怖くて発見されるとコレラとみられて、

帰還船に乗るのもだいぶ先に延ばされてしまいます。

班全体が乗るのを遅らされしまうので、

誰にも言うなと強く口止めをされました。

皆コレラにかかることを最も恐れていて、

辛くても我慢してましたね。

結局、もう出される食事には手を付けずに、

パイ生地というのでしょうか、

おやつによく食べていたものをけっこう持ってきていたので、

それを皆で少しづつ食べてなんとかつないでました。

 妹は肺浸潤に侵されていたので、

何も食べることができずじっと横たわっていて、

青い顔をして骨と皮だけというやせ細った状態でした。

 奉天にいたころ終戦となり食糧事情が一気に悪化しました。

満人(その頃はそう呼ばれてました)が食べ物を売りに来るのですが、

どうも得体の知れないものも多く消毒もしてないですから、

腸チフスにかかる人が多く出たんですね。

薬もないですから大半は命を落としてしまいました。

母が死んだのは肺結核ではないかと思います。

父が死んで終戦となり、

子供たちを抱えて食料を調達したり壺を売ったりと、

走り回った結果だと思います。

「死にたくない、死にたくない」と言い続けてましたね。

引き上げをほんとに楽しみにしていて、

なんと引き上げが決まった3か月前の死でした。

若い死だったのでほんと死に顔がきれいだったのを覚えています。

両親の遺骨は姉二人が最後まで首にかけて日本に引き上げてきました。

自分の首にかけ掛けてみたのですが、

凄く重かったのを覚えています。

引き上げの時は、みなさんお骨を全部持っていくことはなかったですね。

結局、重いのでお骨の一部だけを持ってきていました。

姉たちはそれは嫌だと、

両親の骨を全部骨壺に入れて、

首にかけて引き揚げてきました。

その執念で日本にお墓を立てることができたんですね。

 収容所には引き上げていく日本人を当て込んで、

中国人の露天商が大挙してびっしり並んで店を開いてました。

中国で使っていたお金は日本では使えないと言われてましたし、

持ち込むこともできないと言われてました。

そのお金を当て込んで中国人の露天商が店開きをしてたんですね。

皆持っていても仕方がないということで、

手持ちのお金を気前よく使ってました。

 姉は一番下の弟に「男はあんただけなんだからしっかりして!」

と、しょっちゅう言うのですが、

弟はどこ吹く風であちこちちょろちょろしてました。

まあ、姉たちを見ていてとにかく可愛そうでしたね。
=つづく=



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