That エッセイ once again

                               

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当教室に在籍して早18年。
                     アンサンブルにも参加して元気にギター弾いている。
                      マダムにギターを始めたころの思い出を、
                       以前語っていただきました。
                        今回再び掲載したいと思います
                           大陸育ちのお話は興味が尽きない。
                            もう一度詳しくお話していただき、
                             加筆しながら紹介したいと思います。
                               かなり貴重なお話であり、
                               歴史の証言の意味合いもあります。



       
=満州時代の思い出(四)=

 終戦から引き上げまでにはいろんなことがありました。

わたしには兄が一人いました。

この兄は母の希望で内地の学校に通ってました。

ところが終戦間近になって徴兵年齢が下がったのです。

従来は二十歳が徴兵年齢です。

それを繰り下げたんですね。

兄はまともにそれに引っかかって召集されることになりました。

内地から我々のところへ帰ってきました。

帰ってきてしばらくして訓練地へと旅立っていきました。

すぐに終戦です。

兄の乗った列車は列車ごとソ連に連れていかれてしまいました。

いわゆるシベリア送りになったわけです。

後で聞いた話ですが、

途中、列車が止まると逃げ出す人がいるんですね。

そうするとまともに機関銃で一斉掃射です。

バタバタと倒れて死んでいったそうです。

列車から逃げても逃げ切れるわけでもないと思うのですが、

本能的に逃げるんですね。

 シベリアに着くと待っていたのは寒さと飢えです。

猛烈な寒さの中、ほんのちょっとの食べ物しか与えられません。

飢えと寒さで毎日死んでいく人がいるんですね。

死んでしまうと丸太を放り出すようにその辺に捨てていったそうです。

砂をかけるなんていうのはまだましなほうだったようです。

飢えと寒さと過酷な労働が毎日続く中で、

仲間同士のいがみ合いもあったようです。

とにかくすさまじい様相を呈していたということです。

 もう一人、姉のいいなずけがやはりシベリアに送られました。

二番目の姉は美人の誉れ高く、

是非ということとでこの人のいいなずけになったようです。

この人は、陸軍士官学校を卒業していて陸軍の航空隊にいたそうです。

非常に勉強家でロシア語が堪能だったということです。

それが幸いして収容所でも通訳として重宝されたようです。

食べ物も他とは違っていい食事が出ていたようです。

まあ、芸は人を助けるという見本ですね。

 母はこの二人の安否が気になって、

何人もの占い師に占ってもらってました。

占い師全員、異口同音に「二人は死んでます」ということでした。

ところが終戦になって二人とも生きて帰ってきました。

まあ、占いのあてにならないこと・・・。

わたしはこんなことがあってから、

占いなどというものはいっさい信用しなくなりました。

 母といえば終戦後の心労が積み重なったと思うのですが、

引き上げ前に無念にも亡くなってしまいました。

意識がなくなって死ぬほんとうに直前まで、

「この子たちを残しては死ねない」と、言い続けてました。

48歳の若すぎる死ですよね。

年齢が若かったために、

死に顔が凄くきれいだったことを覚えてます。

もし今だったら死ぬようなことはなかったと思います。

疫痢と言いますか、

この時かなり蔓延してて、

子供たちがバタバタと死んでいく状況でした。

市内には大きな病院もあるのですが、

中国軍に接収されてしまって、

日本人はとても行ける状態ではありませんでした。

町医者もいたのですが皆すべて看板を下ろして隠してしまいました。

医者と分かると中国軍に連れていかれるからですね。

まったく医者にかかることもできず薬もありませんでした。

薬さえあれば死ぬことはなかったと思います。

いまだったら絶対に死ぬような病気ではなかったんですよ。

返す返すも残念でなりませんでした。

 母は24歳の時に満州の父の元へ嫁いできたのですが、

当時内地で女の24歳と言えば晩婚もいいところです。

いまでいえば30歳をとうに過ぎたというところでしょうか。

 母は早くに両親を亡くしていて、

弟たちを学校を出すためにとにかく頑張った人です。

そういう状態ですから嫁入り道具なども何もありません。

島根県の旧家ではあったのですが、

両親が早くに死んで祖父母だけになれば大変です。

弟たちをとにかく学校を卒業させなければと奮闘したんですね。

結果、お嫁には行き遅れ、

嫁入り道具はなにもない状態でした。

この当時、嫁入りに際して何もないというのは、

かなり致命的だったんですね。

そんな時に父が「満州に来なさい」

「満州だったら嫁入り道具もなにも必要ないし、歳も関係ない」

「身一つで満州に来てください」と言って母を呼び寄せたそうです。

そんな母でしたが、終戦という艱難に際して奮闘した結果、

若くして命を落としてしまいました。

母が亡くなりその重責は一番上の姉の双肩に、

全てかかることになりました。

 特に今から考えても娘らしい格好というのはしていなかったのですが、

年頃だったせいもあって町内会長からは、

常に地味にするように注意を受けてました。

やはり若い娘ということで危険があるということです。

 髪は三つ編みにして服装も地味な色合いのパッとしないものでした。

それでも気を付けないといけなかったんですね。

見ていて可愛そうな気がしましたよ。

年頃の女性ということで、

どんなことが起こるか想像もできなかったんですね。

危険がいっぱいという感じでした。
=つづく=


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