That エッセイ once again

                               

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当教室に在籍して早18年。
                     アンサンブルにも参加して元気にギター弾いている。
                      マダムにギターを始めたころの思い出を、
                       以前語っていただきました。
                        今回再び掲載したいと思います
                           大陸育ちのお話は興味が尽きない。
                            もう一度詳しくお話していただき、
                             加筆しながら紹介したいと思います。
                               かなり貴重なお話であり、
                               歴史の証言の意味合いもあります。



       
=満州時代の思い出(三)=

 8月15日、終戦の日の天皇陛下のお言葉の放送がありました。

隣組といってもそれほど活動していたわけではない隣組でしたが、

そこの組長さんが「重大なラジオ放送があるから聞くように」

と言ってきました。

ご近所のラジオは、どうも小さいということもあって、

雑音がたくさん入って聞きづらいということで、

我が家のラジオで聞くことになりました

ラジオには父親が結構凝っていて、

スピーカーが大きかったんですね。

近所の人たちが集まったところで、

天皇陛下のお言葉がスピーカーから流れ出しました。

ところが聞き終わってもどうもよく分かりません。

自分が子供だったせいもあってか、

陛下の言っているお言葉がよく理解できなかったのです。

キョロキョロしていると近所のおばさんが、

「戦争に負けたのよ」と教えてくれました。

回りでは泣く人もいて姉もなんだかうなだれた様子でした。

私は、そんな大人たちの様子とは関係なく、

内心ほっとして戦争が終わったことがうれしくてたまりませんでした。

非常に緊迫した気分から解放された気がしたんですね。

しかし、戦争が終わったといっても日本は負けたわけです。

そこからまず困ったのが食べ物です。

ものが入ってこなくなったんです。

それでも街の中心にいた我が家はまだ恵まれてる方でした。

街から離れれば離れるほどひどい状態だったようです。

満鉄も何も日本の会社はなくなってしまったので、

現金も入ってくることがなくなりました。

お金を稼ぐすべがなくなってしまったのです。

そこであちこちで始まったのが道沿いに壺を並べて売る商売です。

なぜか中国人は壺を買いあさるのです。

それも結構いい値段で買い取っていきます。

いまだにそれがなぜなのかよく分かりません。

母に連れられて一緒に売りに行くのですが、

女の子の格好をしていては危ないということで、

男の子の格好をして出かけます。

見るからに私はわんぱくな顔をしていたのか、

けっこう平気でした。

それでも疑う人もいて、

顔をくっつくくらい近づけて見る人もいました。

それでも中国人は比較的まともな値段で買ってくれました。

こう言ってはなんですが、

満人はなんというかこすっからかったですね。

 そのうちに奉天の街にソ連兵が入ってきました。

これはほんと怖かった。

女性とみるとレイプするんですね。

家の中に女性がいると、

引き出しきて人の見てる前でもレイプしていくんです。

ことが終わると捨てるようにポイと放り出していくんですね。

怖かったですよ。

とにかく若い女性は外に出るなということを言われました。

姉二人は年頃だったので母親が心配してました。

実は私もこの時まで知らなかったのですが、

我が家には地下室があったのです。

そこにソ連兵の姿が窓越しに見えると、

姉二人と妹と私で隠れました。

しかし、とにかく暇なので4人で遊ぶのですが大きな声が出たりなんだりで、

「見つかったらどうするの!」と母親に怒られました。

 とにかく女の格好をしていると危ないということで、

丸刈りにして男の制服を着て外に出る女の人もいました。

なんと丸刈りにして男の子の制服を着て友達が訪ねてきたときは、

いやはや仰天しました。

それでも見つかってレイプされたりしたという話を聞きました。

 なぜかソ連兵はやたらと腕時計を欲しがるんですね。

腕時計を見るとよこせと言って奪っては両腕一杯に時計を巻いてます。

しかし、時計が止まると捨てていきます。

時計のねじを巻くということが分からなかったようです。

 やはり街の中の人たちより、

郊外にいた人たちの方が被害は大きかったようでした。

ソ連兵が入ってきた時、戦車や装甲車も列を作って入ってきました。

驚くことにそのすべてがナチスドイツのマークが入ってました。

負けたドイツから分捕ってきたことがすぐわかりました。

ドイツの戦車や装甲車に交じってソ連の車両が入ってるのかというと、

そんなことはなくすべてがナチスドイツの戦車、装甲車でした。

もう少し戦争が長引いていたら、

ソ連は負けていたかもしれないと思いましたよ。

分捕った戦車、装甲車しかこちらに回せなかったわけですから。

満州に回される兵隊というのはどうも最下層の荒くれだったようです。

着ている軍服もなんだかみすぼらしい感じでしたよ。

 ソ連兵がいる間はほんとに怖い思いをしたのですが、

 そのうち中国中央軍が入ってきました。

蒋介石の国民党軍です。

そこからだいぶ平穏になって落ち着いていきました。

国民党軍は毛沢東の軍に負けてしまったせいか、

ずいぶん悪く言われたりしましたが、

実際は荒れた感じもなく街の治安もだいぶよくなりました。

日本人を圧迫するということもなかったですね。

国民党軍が支配していた時は、

引き上げもスムーズにいったと聞いてます。

国民党軍が負けて毛沢東の共産軍が入ってきてからは、

引き上げもだいぶ難儀するようになったと聞いてます。

しかし、国民党軍が入ってきてもすべて無事だったわけではありません。

軍隊が使うために日本人が住んでる家を接収し始めたんですね。

我が家はこの時は町中に住んでましたが、

満鉄の宿舎に住んでいた人たちは大変です。

全員すぐに出るように命令されたようです。

着の身着のまま追い出されるわけですから大変ですよね。

行く場所もないわけですから・・・。

日本の軍人、軍属は終戦を事前にキャッチしていて、

この時はすでに家族ごと我先に逃げてしまっていて、

この時点で、はっきりと明暗を分けた形でしたね。

 この天地がひっくり返ってしまった状態になった日本人には、

どうにもつらい状態が出現してきたわけです。

我が家もいよいよ軍に接収されるということになりました。

家財道具すべてを置いて出ろというのです。

さすがにこれにはまいってしまいました。

出ろと言われていくところもないわけです。

母が非常に心配して町内会長に相談したようです。

このころになると終戦後ということもあり、

町内会も強い結束でつながっていました。

そこで、ほんとに幸運なことに、

馬さんという国民党軍の将校の人が助けてくれました。

接収が開始される前に、

我が家のドアに馬さんの隊の接収済みの張り紙を張ってくれたのです。

張り紙に馬さんのような佐官級の将校の名前が入ってれば、

さすがに手出しはできないわけです。

今の人にはなかなか理解できないかもしれないですが、

もうホントに助かりました。

馬さんにはいくら感謝してもしきれないです。

この馬さんという人は日本の東京帝国大学に留学していたんですね。

しかし、中国人ということでなかなかいい勤め口がなかったようです。

そのうちに日本人の女性と恋仲になって、

北京に駆け落ちしてきたということです。

そこで蒋介石の国民党軍に身を投じたわけですね。

馬さんがいなかったらどうなってたかと思うとゾッとします。

国民党軍は毛沢東の軍に負けてしまって台湾に逃げたわけですが、

馬さんは無事だったでしょうか。

我々が日本に引き上げるときに、

どうも姉に日本にいる奥さんの親族に手紙を託したようです。

結局、日本に着いてから姉たちとはバラバラになってしまったので、

その後のことはまったくわかりません。

台湾に逃げてからは消息を知る手立てはないのですが、

今でも気になってます。
=つづく=


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