That エッセイ once again

                               

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当教室に在籍して早30年。
                     アンサンブルにも参加して元気にギター弾いている。
                      マダムにギターを始めたころの思い出を、
                       以前語っていただきました。
                        今回再び掲載したいと思います
                           大陸育ちのお話は興味が尽きない。
                            もう一度詳しくお話していただき、
                             加筆しながら紹介したいと思います。
                               かなり貴重なお話であり、
                               歴史の証言の意味合いもあります。



       
=満州時代の思い出(二)=

 小学校の時の思い出がもう一つありました。

私自身のことではないのですが、

姉は私が小学校の時奉天の女学校に通ってました。

その頃は満鉄の社宅にいたわけですが、

満鉄の社宅はかなりの敷地があり、

町家とははっきり分かれてました。

女学校には皆同じに通ってましたが、

満鉄の職員の子と町屋の子との間には、

なんとなく壁があったと話してました。

街の子はだいたいは商店の子たちです。

やはり満鉄の職員というのは、

一段高く見られていたということですね。

差別というはっきりしたものはなかったにしても、

なんとなく意識の違いはあったと話してました。

この時代にもこんなところがあったんですね。

若干いじめらしきこともあったようです。

今とは全くレベルが違うとは思いますが・・・。


いつの時代も多かれ少なかれこういう意識というのはあるんだと思います。


 さて、新京での高等女子師範学校で寄宿舎生活を送っていたある日。

忘れもしない、それは昭和20年 8月13日です。

先生が飛んできて、

「南に帰る者はすぐに荷物をまとめて外に出ろ!!」と、

大きな声で号令しました。

なにごとかと思いましたが、

とにかく荷物をまとめて背負いました。

荷物といっても大したものはなくて少しって感じでしたね。

それでも大慌てで荷物を背負って外に走り出ました。

なにがなんだかこの時は分からず、

ただ先生に連れられて新疆の駅に行ったのですが、

後からこの時、ソ連が攻めてきたということを聞きました。

駅に着くとものすごい人だかりです。

これも後から聞いた話ですが、

この人たちはソ連が侵攻して来たために、

北の開拓地から逃げてきた人たちだったということです。

満州の開拓地には、土地はただでいくらでもある。

という宣伝文句につられて日本全国から渡ってきた人たちです。

いよいよソ連軍が入ってきて逃げてきたということです。

しかし、駅に着く列車はどれも逃げてくる兵隊たちで超満員の状態です。

誰も乗ることができないんです。

私たちは10人いたかいないかの人数でした。

先生が駅員さんに知り合いがいたということで、

来た列車に乗せてくれました。

それを見ていた人たちがいてワーワー騒ぎ立てるのです。

しかし、駅員さんの誘導で来た列車になんとか乗ることができました。

列車に乗るとなんと将校達の乗っている車両でした。

なんということなんでしょうか、

将校は4人掛けのひとつの椅子に、

一人づつ腰掛けていました。

あれだけ大勢の人が乗れずに騒いでいても、

なんのこともなくふんぞりかえってます。

私たち女学生が乗ってくると空いている席に座れと指さします。

ちょっと怖い気もしましたが、とにかく言われるままに座りました。

極度の緊張からか座るとすぐに居眠りです。

 女学校には北から来た子たちも大勢いました。

その子たちは寄宿舎に残ってました。

とりあえずそれぞれの家に帰ったようですが

その後どうなったか全く情報はありません。

どうなったかを想像するのもちょっとはばかれますね。

また、果たして駅にいた大勢の逃げてきた開拓団の人は、

あの後どうなったのでしょう・・・。

まったく知ることもできないですが、

置き去りにされたという感じはしますね・・・。

まあ、置き去りにされた人たちには申し訳ないのですが、

自分たちは本当に幸運だったと思います。

満州の開拓団の人たちのひどい状態の逃避行がよく言われますが、

新疆の駅でのこんな状況もそういう逃避行に影響したのかもしれないですね。

いろんなところでこんな事が起こっていたと思いますよ。

 うつらうつらしているうちに列車は奉天の駅に到着しました。

奉天の駅にもたくさんの人が集まってました。

そこから家に電話を掛けたのです。

もう電話も通じない状況でしたが、

なぜか我が家には通じて母が電話に出ました。

「とにかく疎開もしないでいつまでも待ってるから帰っておいで」と言うのです。

この街にいるのは危険だからということで多くの人たちが疎開していきました。

そんな状況の中で母は私が帰るまで待っているというのです。

とにかく急いで家に向かって歩き始めました。

わき目もふらずとはこういう時のことですね。

 結局高等女子師範学校へは3か月行っただけで終わってしまいました。

なんともついてないかったのが我々でしょうか・・・。
=つづく=


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