That エッセイ once again

                               

                      
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当教室に在籍して早20年。
                     御年93歳、元気にギター弾いている。
                      マダムにギターを始めたころの思い出を、
                       以前語っていただきました。
                        今回再び掲載したいと思います
                           大陸育ちのお話は興味が尽きない。
                            もう一度詳しくお話していただき、
                             加筆しながら紹介したいと思います。
                               かなり貴重なお話であり、
                               歴史の証言の意味合いもあります。



       
=満州時代の思い出(一)=

 私は、父親が満州鉄道の技術者だった関係で、

中国の撫順(現在の長春市)で生まれて育ちました、

石炭の露天掘りをしているところです、当時は満鉄が経営してました。

見渡す限りの広い地平線があり

地平線に夕日が沈んでいくのはすばらしく感動的でした。

 満州というところは、冬は−30度の世界です。

朝、学校まで歩いてゆくのですが、

吐く息や降る雪でマスクも毛糸の帽子も凍ってしまいます。

教室に入ると暖かくなるので、

一気に溶けてしまってまるで水をかぶったようにびっしょりです。

まつ毛も息で凍って教室に入ると溶けて水が目に入る状況です。

外は酷寒の状態ですが、教室にはスチームが入っていて、

そのお湯の通る配管の上にお弁当箱を乗せて温めます。

学校に来る間にお弁当も凍ってしまうのです。

ずらっとお弁当箱が並んでいると壮観ですね。

外は大変な寒さですが一歩家の中に入ると、

満鉄の社宅は全館スチームが入っていてぽかぽかです。

父親は浴衣一枚で部屋の中を歩き回ってビールかなんか飲んでましたね。

満鉄の社宅は広いグランドの回りに建っていて、

そのグランドに冬になると水を張るんですね。

これは使用人として働いていた中国の人が夜の間に水を張って、

朝には凍って広いスケート場に変わるわけです。

皆さん冬はこのグランドでスケートです。

私も3歳にして父に連れられてこのグランドでスケートです。

ただ父は教えてくれるということはなく、

私にスケート靴をはかせると座らせて、

それっと背中を押します。

そのまま滑っていきますが、

止まることもできず最初はひっくり返ってました。

しかし、とにかく毎日の遊びがスケートです。

 ここの氷は天然氷なのでカチカチに硬い氷です。

日本に来て滑った氷は人口なので柔らかいですね。

歯はそれほど鋭くなくても横滑りするということもなかったです。

 かたい氷の上をすべるのはスピードスケート靴です。

靴の歯は毎日研いで鋭かったですね。

そうしないと横滑りしてしまうんですね。

夜に父に磨いてもらいましたよ。

3歳でもだんだん立って滑るようになりました。

毎日毎日スケート滑ります。

今だったらスケートの選手になってもおかしくない感じでしたね。

そのくらいうまい人がたくさんいました。

小学校の3年生の時にスケートの競技会の選手に選ばれたことがあります。

しかし、これがかなりつらいもので、

出番を待っている間ストーブのそばにいたいのですが、

その頃は上級生が絶対的です。

下級生はそばにも近づけてもらえません。

寒くて寒くてずっと震えてる状態でした。

選手に選ばれてしまったのが運の尽きって感じですね。

つらかった思い出の一つです。

 満州の雪は日本と違ってサラサラで湿り気がありません。

そのせいで手で固めるということができないのです。

雪が降っても風で吹き飛ばされてしまい、

道にたくさん積もるということもないかったですね。

雪道を歩くのが大変だったということもなかったです。

もちろん雪だるまも作った記憶はありません。

日本に帰ってきて驚いたことの一つです。

終戦で帰国するまで、日本の雪というのを見たことがなかったのです。

 小学校3年生の時に撫順から奉天へ父が転勤しました。

奉天も同じような感じでしたね。

やはり寒い土地柄でした。

夏の遊びはよく覚えてないです。

いろいろ遊んでたと思うのですがあまり記憶にないですね。

我が家は父親が厳しくて他ではマージャンなど普通でしたが、

それもダメで正月の時だけトランプをして遊びましたね。

兄が体が弱かったので家の庭に鉄棒を母が作りましたが、

兄は全然やらず私だけ熱心にぐるぐる回ったりしてました。

そうしたら運動会の昼食の時の余興に鉄棒が披露されるんですが、

それに選ばれて何人かの真ん中で競技をしていたのですが、

母にはどこにいるのかわからなかったわよとか言われましたね。

あとは相撲です。

担任の先生が相撲が好きで体育の時間に相撲を取らせるわけです。

男の子も女の子もおかまいなく相撲を取らせるんですね。

今だったらそんなことはありえにと思いますが、

当時は気にすることもなかったですね。

女の子と男の子が相撲を取ると、ほぼ女の子が勝つんです。

横綱も色の黒い大柄な女の子。

その下の大関が私でした。

押し出しなんてのはなくてもっぱら上手投げです。

次々男の子を投げ飛ばして連戦連勝でした。

 撫順から奉天までは列車で一時間くらいです。

父が満鉄の職員だったので運賃は無料でした。

 そして小学校5年生の時に南へ転向しました。

錦州より田舎の錦西というところからさらに奥に入ったところです。

そこは鉱山があってモリブデンという鉱石を採掘する会社がありました。

父が満鉄からその会社の重役から誘いを受けたんですね。

 南に行くと気候も全く違って、

温暖で氷が張るということもなかったですね。


満州の気候とはだいぶ違うものでした。

錦州の鉱山から奉天へ転任すると、

そこでなんとストライキが起こりました。

日本の内地ではまずそんなことはないと思いますが、

やはり外地ではそういうことが起こったのです。

結局、父はその責任を取る形でその会社を辞めることになりました。

ストに参加した若い社員たちの再就職をすべてあっせんして辞めました。

満鉄時代のツテがあったのですべて再就職させることができたようでした。

また新しい会社へ再就職したのですが、

そこで交通事故にあい死んでしまいました。

乗っていたトラックが 対面走行してきた別のトラックと接触してしまって、

完全に横倒しになったわけではないのですが、

打ち所が悪かったということでしょうか即死だったということです。

 私は新疆の高等女子師範学校へ行ってました。

全員寄宿舎生活でした。

これがもうほんとにつらい生活で、

食べ物も先輩優先でいいものが下級生には回ってこないのです。

味付けもなじめずほとんど食べないで残しました。

小学校までは結構大柄だったと思うのですが、

ここで成長が止まってしまった感じです。

上下関係も厳しく徹底されていて息が詰まる感じでした。

そこで働いてる中国人の若い子が「これ美味しいよ」と言って、

持ってきてくれる食べ物がせめてもの救いでした。

この時、運命の時は刻々と近づいてました。

もちろんそんなことはこの時は思いもよらないことでした。
=つづく=



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