譜面台の陰から
>存在感<
少し涼しい風が吹いてきたかなと思ってると、
あっ!という間に初冬の風が・・・。
なんだか秋という季節を感じる前にすでに初冬。
季節の移り変わりの速さについていけないという感じ・・・。
日本の季節感もだいぶ変わってきた感じですね。
自分の存在を自分がどう定義できるのか・・・。
日常、自分が自分であることを、
しっかり感じることができるという瞬間はそう多くはないですよね。
下手すると埋没してしまっていることにも気が付かない。
自分が自分である瞬間も素通りしてしまって、
なにもないということが普通になってしまう。
これはこれでそのまま一生を終えてしまえば、
それはそれでいいのかもしれない・・・。
しかし、現代社会ではなかなかそうはいかない。
フト自分はなんなんだろうと思わされることがときとしてある。
人間というのは自分が自分の立ち位置を確認できなくなると、
あたふたしてしまう瞬間ってありますよね。
登山にたとえてみると、
何時間もほとんど苦しみしかない登りを登り終えて、
頂上に立つ。
頂上に立ってみる景色というのは登ってきた人、
だれしも同じに見えるはずなんですよね。
しかし、そこで頂上の景色を見た時に、
その景色が素晴らしいと感じる自分を、
しっかり肯定できるかどうか、
しっかり肯定することができれば、
次も登ろうという意欲が湧くんですね。
逆に同じ頂上の景色を見ても、
そこに至るまでの苦しい自分しか見られなければ、
二度と山に登ろうとはしないんですね。
いくら苦しくても頂上に立っている自分を強く肯定できれば、
しっかり自分の存在をそこで意識できるんですよね。
人間というのはそこでしっかり自分の存在を肯定できれば、
苦しくてもまたチャレンジすることができるんですよね。
人間なかなか一般社会で、
自分を強く押し出していけるというのは難しい・・・。
日本というのは村社会という側面があるから、
自分というものを際立させていくことはかなり難しい。
しかし、まったく埋没していくことも難しいのが人間なんだと思う。
そこで趣味という世界が重要になってくる。
登山も趣味ではあるが6時間も急な登山道を登り続けるというのは、
そうそう出来ることでもない・・・。
では、なぜ繰り返し登る人がいるんだろう。
それは頂上に立った時、強烈な自己肯定があり、
そこに自分の存在を意識することができるからだと思う。
ギター一台を持ってステージに立つ・・・。
客観的に考えれば、結構怖いという感覚があると思う。
もしかしたら曲を途中で忘れてしまうかもしれない、
そういう自分を想像すると、
二の足を踏むというのもあるかもしれない。
しかし、登山と一緒で苦しい練習を克服してステージという場所に立って、
曲がりなりにも最後の音まで一曲弾き終える。
そこに意識しようがしまいが強烈な自己肯定が生まれるんですね。
自分一人の存在を感じることができるんですよね。
そういう共通の空気感があるから次にもチャレンジできるんだと思います。
自己の存在を意識できることは、
人間にとって非常に大きなインパクトがあると思う。
楽器を弾くというだけでも回りの社会から、
自分の存在を意識できることなんだと思う。
自己肯定のない状態でいると、
自分の存在が全く意識することもできない、
自分を見ることもできない感覚の中で生活することになりますよね。
人間というのは自分の存在を強く意識できる瞬間がないと、
自分の中に生きる力を生むこともできないと思う。
長い期間練習してたった一人皆さんの前に出て演奏する。
上手くいってもいかなくても、
どっちにしても自分を強く意識する瞬間です。
そこで自分の存在が際立つんですよね。
登山にしても長い苦しい登りでも、
常に頂上に到達するわけではないですが、
そこで自分の存在を強く意識してるんですよね。
自分の存在を強く意識出来れば、
また次に向かうことができる。
人前で演奏するというのも同じで、
常に成功するわけでもないんですが、
自分一人そこにいれば、
その存在感はかなり大きなものになるんですよね。
クリスマス会も近くなってきてるのですが、
自分の存在を押し出す場でもあるので、
ちょっと頑張ってみたいですね。
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